誰でも義務教育を卒業する日本と違い、今から1800年前、
後漢の時代には、教育を受けられるというのは、出世に直結する特権でした。
その為に、教育の仕組みも、教室の雰囲気も、今とはだいぶ違うものだったようです。
今回は、後漢の時代の私塾の雰囲気を紹介しましょう。
この記事の目次
師はめちゃめちゃ偉かった!
後漢の時代の教育制度には、現在の国立大学にあたる、太学(たいがく)、
郡国学のような政府が設置した国立、公立の学校もありましたが、
一方では私塾も大流行でした。
大体、私塾を開くような師は、元々、高名な儒者で中央政界との
太いパイプを持っているような事も多かったからです。
そんな師に学んで、見所があると思われれば、個人的に、
推挙されて、エリートコースに乗れるかも知れません。
三国志に登場する盧稙(ろしょく)も、そんな私塾を開いた人でしたが、
人気爆発で、千人以上も弟子がいたようです。
その中には、劉備(りゅうび)や公孫瓚(こうそんさん)がいたのは
周知の通りです。
師に入門するにも、先立つ物が必要
もちろん、私塾に通うにも、無料というわけにはいきません。
束脩(そくしゅう)の礼と言い、一定の金銭を支払う必要がありました。
元々、束脩は干し肉の束を意味していましたが、
時代が移ると、内容は贈物に変化していきます。
それなら、大金を包めば、特別扱いされそうなものですが、
儒学者は建て前上、金銭を卑しむので、露骨にそういう事をするのは、
逆効果になる可能性もありました。
私塾は、広く学問を教える為に儒者が開くので、
原則、束脩の礼を済ませば誰でも入門できたのですが、
あまりに入門者が多かったり、入門者の素行が悪いと、
師の都合で入門を拒否されるケースもありました。
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ガッカリ・・入門しても、師には教えてもらえない?
さて、晴れて私塾に入門した、これからは、師の授業を受けられる
と張り切っても、そうは問屋が卸しません。
そもそも、人気がある師の所には、数百、場合によっては
千名を超える入門者がいるわけです。
巨大な講堂があるわけではあるまいし、師がそれだけの入門者に
直接、学問を教えるような事はありませんでした。
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入門者にもランクがある、弟子、門生
では、私塾に入った入門者は、最初は誰に教わるのか?
と言うと、それは師の弟子にあたる人に教わるという事になります。
入門したばかりの門生では、師が教える学堂に入る事も出来ず、
師から教えを受けた弟子に、これを習うという事になるのです。
弟子というのは、師から、特別に目を掛けられた優等生であり、
時には、師の代わりに授業を行う事もありました。
日本でも江戸時代には、塾頭(じゅくとう)と言って、
弟子の中でも特に優秀な人物が、師に代わり塾内の風紀を取り締まったり、
授業をしたりというような事がありましたが、それに似ています。
折角入門しても、師に親しく接するには、弟子という立場に
なるしかないという事で、人気の私塾に入ってコネを掴むのも
中々大変だったようです。
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師の前には、御簾(みす)が掛かり、質問は許可されないと出来ない
そんな風に、めちゃエラい師ですから、もちろん授業でも、
学堂の中の一段高い場所に座り、直接姿が見えないように、
四方は、御簾で囲まれていました。
当時の授業は素読と言い、黒板など使わず、師の後に続いて
古典の文章を読み上げるモノや、或いは、師が文章を読み上げるのを
ひたすら黙って聴くというスタイルで、途中で質問など、一切許されません。
一通りの素読が終わった上で、はじめて質問が許されますが、
膝を突き合わせての親切な指導など、どこにもありません。
師に教えてもらう以外に、自分でも予習、複習をしないと、
授業についてゆくのは、難しかったでしょう。
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