『三国志演義』を始めとする多くの民間伝承で悪役扱いされることの多い呂蒙ですが、実際はどのような人物だったのでしょうか?
多くの戦功を上げた名将
呂蒙の名が歴史の表舞台に現れたのは、呉軍が劉表の配下である江夏太守の黄祖と戦った時のことです。かつて、黄祖の部下であった呂公が呂蒙の主君である孫権の父、孫堅を弓で射殺していることから、黄祖は孫権にとっての仇敵とされていました。この戦いで呂蒙は黄祖の配下である陳就を打ち取る戦功を上げ、孫権に賞賛され、出世の足がかりを得ます。
荊州を巡る魏と呉の戦いでは、呂蒙は周瑜の配下として戦功を上げ、魏の曹仁を撤退させることに成功。その後、魏の曹操とことを構える孫権に、大国である魏と争うよりも、
劉備配下の関羽に占拠された荊州を奪回して足がかりをすべきであると進言し、関羽の隙を突いて荊州へと侵攻、最終的に関羽とその息子の関平を捕縛して処刑しました。
孫権は呂蒙が上げてきた数々の功績に応え、彼を太守に抜擢しますが、まもなく呂蒙は病床に伏すようになります。孫権は手を尽くして呂蒙の病を回復させようとしますが、その甲斐なく、呂蒙は42歳でその生涯を閉じます。
『呉下の阿蒙にあらず』
数々の戦功を上げた呉の重臣の呂蒙ですが、元は貧しい家の出でした。15歳の頃、呂蒙は自分の姉の夫が続討伐の任に就いたおり、こっそりとその部隊の後についていきました。
結局、義兄に見つかってしまい、義兄はそのことを呂蒙の母親に報告しますが、激怒した母親に対して彼は
『今の貧しさから抜け出すためには、身を危険に晒してでも功績を上げる必要があります』
と応えたと言います。
孫策・呂蒙との出会い
後に呂蒙は彼をバカにした役人を斬り殺すという事件を起こし、一旦は逃亡を図りますが、その後自首します。呂蒙のことを知った孫権の兄、孫策は呂蒙と面会、その資質を見抜いて側近として登用しました。
孫策の死後、呂蒙は孫策の後を継いだ孫権に仕えます。その当時、呂蒙は貧しい出自もあって教育を受ける機会には恵まれず、武勇一辺倒の人間でした。
関連記事:孫策、旧勢力に恨まれ無念の死を遂げる
孫権・呂蒙に助言
そんな彼を見かねた孫権は呂蒙に「学問も学んだほうが良い」と助言します。呂蒙は主君の言葉に答えようと猛勉強を始め、みるみるうちに教養を身につけていきました。
それからしばらくの後、孫権の参謀であった魯粛は、久しぶりに対面した呂蒙が以前とは見違えるほど高い見識と知識を身につけたことを知って驚き、『もはや呉下の阿蒙にあらず』と言ったとされています。
“阿”は敬称の一種で、日本語に置き換えると『◯◯ちゃん』のニュアンスに近い言葉で“阿蒙”とは“蒙ちゃん”と言う意味になります。曹操の幼名“阿瞞”(あまん)や劉禅の幼名“阿斗”(あと)に見られるように、通常は子どもを呼ぶ際に使われる呼び方であり、呂蒙を“阿蒙”と呼ぶのは“おバカちゃん”と言ってバカにしているようなものです。
腕っ節自慢で学のない“おバカちゃん”であったはずの呂蒙が高い教養を身につけていた。
もはや彼は“呉のおバカちゃん”ではない……そう言って魯粛は感心したことになります。
この故事から、『呉下の阿蒙』とはいつまでも進歩しない人を意味することわざとして用いられるようになりました。
この時、呂蒙が魯粛に返した言葉である「士別れて三日ならば、即ち更に刮目して相待つべし」(男子たるもの、三日も合わなければ注意して相手を見なければいけない)という言葉も故事成語として知られています。
関連記事:かわいそうな阿斗(あと)の壮絶な人生
関連記事:稀代の豪傑 魯粛(ろしゅく)|演義と正史では大違い?
三国志演義の呂蒙は?
関羽討伐があだとなり……。その武勇で数々の戦功を上げ、主君の期待に応えて高い教養を身につけた呂蒙。
本来、かなりの傑物のはずですが、『三国志演義』などの創作物に於いては、良い扱いを受けていません。多くの場合、呂蒙は悪人として描かれています。
NHKの『人形劇三国志』では狡猾で非情な人物として、荊州の民を虐殺し、民を守るためにやむなく投降してきた関羽を嘲笑して騙し討ちにする場面があるくらいです。
これらはすべて『三国志演義』の影響といえるでしょう。民衆からの人気の高い関羽を討ち取ったがために、仇役として描かれることが多いというわけです。正史である『三国志』と創作小説である『三国志演義』とでは、登場人物の見方が違うということがしばしばあります。両者の違いを意識しながら読んでみるのも、なかなかおもしろいですよね。
関連記事:三国志時代の兵士の給料と戦死した場合、遺族はどうなってたの?
関連記事:三国志時代の通信手段は何だったの?気になる三国時代の郵便事情