曹操(そうそう)は、武将としても、また政治家としても傑出した人物です。
『正史』の著者陳寿も、曹操のことを
「非常の人にして、世に超えし傑」と称しています。
非常というのは決して「非情」の間違いではなく、
「非常口」の間違えでもなく、
「尋常じゃなくすっごい人」という意味です。
曹操のすごいところは、さらに学者でもあり、詩人でもあるという
素晴らしい文才をも持っていたことです。
曹操の書いた兵法書は19種類にも及び、
現在にも20首以上の詩篇が残されています。
もちろんこれは、乱世でほとんどが散逸しまったための数で、
実際は相当数の素晴らしい文章を残していたと考えられます。
この記事の目次
漢末魏初の建安文化
魏晋南北朝時代とくくられる、漢と隋唐の間にある動乱の時代の文化は、
曹操とその子供たちによって土台が作られました。
曹操は漢代の詩の形式である「楽府(がふ)」というスタイルを用いて、
重厚な詩の作品をたくさん作りました。
曹操の次男である曹丕(そうひ)もまた、父曹操の影響か、
詩を40首ほど残しています。
曹丕の詩は「賦(ふ)」というスタイルが多く、曹操の力強い詩に比べると、
文人らしい柔らかさが特徴です。
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曹丕の文才を上回る曹植
曹丕の文才を上回るのが、さらに弟の曹植(そうしょく)でした。
曹植は10歳のときには、十万もの詩をそらんじていて、
詩文を作るのが上手で、曹操にもとくに可愛がられていたそうです。
そんな曹植の文才は、曹操の死後、曹丕との間に跡目争いが起こり、
「豆殻で豆を煮る」という歌を詠んだことで有名です。
豆殻=曹植、豆=曹丕で、兄弟で争うことを示した悲しい詩です。
この建安時代を代表する三人の文人を、「三曹」といいます。
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建安の七子
曹操らのもとには、多くの文学者が集まりました。
特に名の高い人物7人を、「建安七子」と呼びます。
七子を挙げてみましょう。
・孔融(こうゆう)*彼だけは、曹操と対立する立場でした
・陳琳(ちんりん)
・王粲(おうさん)
・徐幹(じょかん)
・阮瑀(げんう)
・応瑒(おうとう)
・劉楨(りゅうてい)
これらをまとめて、「三曹七子」と呼び、
建安文化を代表する文人とされています。
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この記事を書いた人:東方明珠
こんにちは。とうほう めいしゅです。
中国は上海の雰囲気が好きなので、テレビ塔の「トンファンミンジュ」を名乗っています。
もともと『水滸伝』の大ファンで、『三国志』に興味を持ったのは、アーケードゲーム「三国志大戦」がきっかけです。
当時はゲームセンターに通いつめました!
まだまだ中国史について勉強中ですが、精いっぱい面白いことを探してお伝えしたいと思っています。
どうぞよろしくお願いいたします。