歴史には分岐点が必ず訪れます。中華民国成立最大の功労者である毛沢東。彼が中華民国を建国できたのは彼と敵対していた勢力である蒋介石(しょうかいせき)との会見がきっかけです。張作霖の息子で蒋介石の部下として戦ってきた張学良(ちょうがくりょう)らが、裏切って蒋介石を捕らえ毛沢東に降伏。
この事件により清朝から続いていた天下の戦乱は収束していき統一されて行くことになります。このような分岐点が中国の歴史のみならず世界の歴史には数多く存在します。
もちろん三国志の時代にもいくつもの分岐点が存在します。今回は歴史の分岐点であり、三国志を終わらせる近道となっていたであろうチャンスを逃してしまった曹操のミスについてご紹介しましょう。
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この記事の目次
漢中攻略戦の前哨戦である涼州討伐戦
曹操は赤壁の戦いの後、益州の喉元である漢中を攻略しようと考えます。
そのためにまず、
漢中への通り道である関中で反乱を起こした韓遂(かんすい)と馬超(ばちょう)の討伐を行います。
この戦いは今まで戦ってきた曹操の戦歴の中でも、大した戦にならずに勝てると踏んでおりました。
しかし曹操が黄河を渡河して潼関(どうかん)へ向かう途中で、
馬超軍の奇襲攻撃を受けて命の危険にさらされます。
この時親衛隊長であった許褚(きょちょ)の活躍によってなんとか切り抜けることに成功。
その後は軍師としてこの戦に参加していた賈詡(かく)が提案した離間の計などの計略によって、
連合軍として参加していた関中十部の諸軍閥の離間に成功し、
この諸軍閥のトップであった韓遂と馬超の協力体制を崩します。
関中諸軍閥の連合体制をバラバラにした後、曹操は一気に猛攻をかけて勝利を収めます。
こうして漢中への道を切り開くことに成功した曹操は一時退却して体制を立て直した後、
五斗米道(ごとべいどう)と言われる宗教団体の教祖である張魯(ちょうろ)が君臨している漢中へ
向けて出陣することにします。
難攻不落の陽平関
曹操は関中十部の連合軍に勝利を収めた4年後に漢中へ向けて出陣します。
漢中へ至る道は断崖絶壁で桟道と言われる木を山に打ち付けて作った道は、
今のように人を保護するような安全装置がなく、吹きっさらしのような道を行軍しなくてはなりません。
こんな危険な道をいくつも踏破してようやく漢中の玄関口である陽平関に到着。
曹操は到着するとすぐに攻城兵器組み立てて攻撃を仕掛けますが、
断崖絶壁な山々を切り崩して設けられた関門である陽平関は、
そう簡単に陥落させることはできませんでした。
このため軍略家として三国志一番の頭脳を持っていた曹操でさえ攻めあぐねてしまいます。
また曹操の領地を取り巻く勢力が不穏な空気を醸し出していたので撤退を開始。
劉曄の進言によって再度攻撃
曹操は陽平関を抜けないことから撤退を開始します。
この時山上に残していた曹操軍の一部を迎えに行かせるため、
宿老である夏侯惇と親衛隊の隊長である許褚を派遣。
この時数千頭のシカが陽平関の総大将となっていた張衛(ちょうえい)の本陣に、
なだれ込んだ事により大混乱をきたします。
また夏侯惇と許褚は曹操軍の本体へ戻る為に軍を率いて山上を降りておりましたが、
途中で曹操軍の将軍と一部の軍勢が道に迷ってしまいます。
この道に迷った軍勢は張衛の本陣近くに降りてしまいます。
この将軍はびっくりして援軍を呼ぶため太鼓を乱打。
すると張衛軍はシカの群れによる大混乱とこの曹操軍の太鼓の乱打によって、
曹操軍が夜襲を仕掛けてきたと勘違いをしてしまい、収集のつかない大混乱をきたしてしまいます。
軍師として従軍していた漢の皇族に連なる劉曄は
「殿。陽平関の内側が騒がしくなっております。
今ここで陽平関に猛攻を仕掛ければ陥落することが可能であると考えます。」と進言。
この進言を採用して曹操は陽平関へ向けて猛攻を仕掛けた結果、
陽平関は簡単に陥落することができ、この地を守っていた張衛は逃亡してしまいます。
こうして漢中の玄関口である陽平関を攻略した曹操軍は張魯のいる漢中へ向けて進軍します。
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張魯は戦わずに逃走そして・・・
曹操軍は漢中の城門に到達すると城門は開かれており、
張魯とその側近達は南下して逃亡しておりました。
彼は城内を見聞すると宝物庫には一切手をつけておりませんでした。
曹操は逃亡する際に自らが蓄えた宝物庫に一切手を付けていないことを褒めて、
彼に使者を送って降伏するように促します。
この使者を送ってから数日後張魯は曹操の元へやってきて降伏します。
こうして漢中の平定戦は終了することになります。
司馬懿の進言
曹操は漢中攻略に成功すると占領後の行政を行って民衆の同様を抑えるとともに、
曹操が去った後の守将として夏侯淵(かこうえん)や張郃(ちょうこう)、郭淮(かくわい)などの
諸将を配置してこの地を去ろうとします。
この漢中攻略戦に参加していた司馬懿(しばい)は曹操に対して
「劉備は益州を平定したばかりで、民衆や益州時代の家臣達は彼に馴染んでいないでしょう。
漢中から一気に南下して益州へ攻撃を仕掛ければ、楽に益州を平定できるはずです。」と
進言します。
曹操は司馬懿の進言を聞いて「当初の目的である漢中攻略は達成したのだ。
これ以上欲を出してもロクなことにならない」と言って進言を取り上げませんでした。
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劉曄の進言
陽平関攻略戦で曹操に優れた助言を行った劉曄(りゅうよう)。
彼も司馬懿と同じく曹操に対して「劉備は益州を劉璋(りゅうしょう)奪ったばかりで、
民衆達は彼に懐いていないでしょう。
今こそ南下して益州へ攻撃を仕掛ければ益州平定は簡単に行うことができるでしょう。
しかし今益州攻略戦が簡単にできる最大のチャンスを逃してしまえば、
いつこのようなチャンスが巡ってくるかわかりません。
殿。どうか全軍に「益州攻撃を行うべし」と号令してください」と強く進言。
この進言を聞いて曹操は司馬懿の進言を聞いた時と
同様に反対意見を述べて取り上げる事をしませんでした。
曹操はなぜかれらの進言を取り上げることをしなかったのでしょうか。
曹操が益州攻撃を行わなかった原因その1:情報伝達の遅れが原因?
曹操は軍勢も深刻な被害を出しておらず、
不足気味であった兵糧も漢中を平定したことによって潤沢に手に入れることになります。
不足するべきものが何もなく益州へ攻撃すれば、
簡単に平定できる最大のチャンスが巡ってきているのになぜ行わなかったのでしょうか。
その理由を勝手に考えてみました。
原因その1として孫権軍北上を危惧していたのではないのでしょうか。
曹操は自らがいない期間を狙って孫権が合肥へ攻撃を仕掛けてくるかわからなかったので、
不安になり漢中に守将をおいてすぐに西へ向かいたかったのではないのでしょうか。
孫権は実際に曹操が漢中攻略戦に出向いている間に、合肥(がっぴ)へ攻撃を仕掛けております。
しかしこの戦いは合肥三銃士である張遼・李典が孫権軍に攻撃を仕掛け、楽進が城を堅守。
そして張遼が無双状態になって孫権軍を蹴散らし、
孫権を殺害する一歩手前まで追い詰めております。
こうした活躍が行われていたのは曹操軍が陽平関を陥落させて、
漢中を無血開城させた時でした。
しかし漢中は断崖絶壁にあり、中原の情報が入りにくい場所にありました。
曹操はこの合肥の戦いに勝利した情報を知らなく撤退しようしていたのではないのでしょうか。
ですが曹操は三国志一の天才軍略家です。
自分がいなくなった期間に孫権軍が攻撃を仕掛けてくる可能性を配慮して、
合肥にしっかりと守将を配置しており、
何かあったらすぐに知らせが自らの元へ届くような情報伝達の組織をしっかりと
構築していたはずです(主観たっぷりの勝手な予想です)。
もし情報伝達がしっかりと組織していなければこれが最大の原因であると考えます。
だがしっかりと情報伝達の構築をしている可能性が高いので、
情報伝達組織がしっかりと稼働していると仮定して話を進めていきます。
情報伝達組織がしっかりしていたにも関わらず、
益州攻撃の最大のチャンスを孫権軍北上を危惧していたことと情報伝達の遅れで、
逃してしまう可能性はかなり低いのではないのでしょうか。
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曹操が益州攻撃を行わなかった原因その2:益州攻略に時間がかかる
曹操が益州攻撃を行わなかった原因その2としては、益州攻略に時間がかかりすぎると
考えていたのではないのでしょうか。
司馬懿(しばい)や劉曄(りゅうよう)の二人が進言したとおり、
益州は統治を始めてから日が浅く民衆や劉璋(りゅうしょう)時代からの武将達も、
劉備に心服していなかったでしょう。
その為攻撃をしかければ益州が統治をしっかりと固められる前に行った方が、
簡単に攻略ができたことは間違えないと思います。
しかしいかに益州が簡単に攻略できると云えどもそれなりに時間はかかります。
その為曹操は益州攻略に時間がかかりすぎると考えて、
司馬懿や劉曄の進言を取り上げなかったのではないのでしょうか。
曹操が益州攻撃を行わなかった原因その3:年齢が原因?
曹操が益州攻撃を行わなかった原因その2としては年齢が原因なのではないのでしょうか。
曹操が漢中攻略を行った時の年齢は60歳前後です。
蜀の黄忠(こうちゅう)や呉の賀斉(がぜい)は高齢になっても戦陣で活躍しておりましたが、
当時の平均寿命は大体50歳前後と考えられております。
平均寿命より10歳程度超えている曹操にとっては益州攻略はかなりしんどかったと思います。
ほかの将軍を益州攻略の総大将に任命して攻撃を任せても良かったであろうと考えますが、
蜀には張飛・趙雲らの将軍や天才軍師である諸葛孔明がいたので、
やはり自らが陣頭に立って指揮しなければ攻略することは難しかったでしょう。
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曹操が益州攻撃を行わなかった原因その4:今まで挙げた全ての理由が原因
曹操が益州攻撃を行わなかった原因その1~4まで全ての原因を総合した結果、
益州攻略戦を繰り広げることなく撤退していったのが一番妥当な気がします。
ふたりの軍師から進言されて、
すぐにこれらの原因を全て総合して結論を出した曹操はやはり天才軍略であったと思います。
もし益州攻撃を行っていたらどうなっていたの?
もし曹操が益州攻略に踏み切っていたどうなっていたのでしょうか
益州の統治を始めたばかりで、民衆達も彼に心服しておらず、
また劉璋から劉備に降伏してきた家臣達もまだ彼を信頼しておりませんでした。
どの程度の時間がかかるかわかりませんが、5年以内には益州は攻略できたと思われます。
そして益州攻略が完了した曹操軍は益州と荊州の両方から劉備軍に攻撃を掛けることによって、
壊滅もしくは再起不能なダメージを追っていたでしょう。
そして残った孫権軍を降伏させるか討伐して滅亡させれば天下統一が完了していることでしょう。
しかしこれはあくまでも廉の予想であるので実際に起こっていないので、
どうなっていたかはわかりません。
しかしひとつ言えるのは曹操は天下統一を行う最大にして最後のチャンスを逃したことは、
間違えないでしょう。
三国志ライター黒田廉の独り言
劉備の視点から見ればこの時曹操が益州攻撃を決断しなかった事で命拾いすることになります。
もし益州攻略戦が開始されていれば最悪のシナリオとして劉備は滅亡していたかもしれません。
また劉備軍滅亡はないかもしれませんが、益州は曹操に取られていたでしょう。
そうなれば劉備軍が曹操に勝つのは非常に難しくなり、
三国志の歴史は長々と続かなかったでしょう。
また司馬家が建国した晋も存在しなかったかもしれません。
そう考えると曹操が益州へ攻撃を仕掛けるか、
撤退するかの決断が天下の運命ひいては歴史を変えたと言えるのではないのでしょうか。
「今回の三国志のお話はこれでおしまいにゃ
次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう
それじゃあまたにゃ~」
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