三国志で最も有名な戦いが、曹操軍VS孫権軍(&劉備軍)の「赤壁の戦い」です。戦上手の曹操に対して、孫権は前部大都督の周瑜に命運を託します。
周瑜は寡兵ながら偽りの投降や東南の風を利用した火計によって曹操の水軍を撃破しました。今回は、後に呉の大黒柱となる陸遜が、この戦に参加していたらどうなっていたのかを考察してみます。
周瑜と陸遜のニアミス
そもそも赤壁の戦いがあった時期に陸遜はどうしていたのでしょうか?
陸遜は183年生まれで、三国志正史の呉書によると、21歳で当時討虜将軍であった孫権の幕下に入ったと記されています。赤壁の戦いが行われたのは208年ですから、陸遜がすでに孫権の配下だったことになります。周瑜が病没するのが210年のことです。そう考えてみると陸遜と周瑜が孫権に仕えていた時期はわずかですが重なっています。
周瑜は孫権から兄と慕われているほどのスーパースター、陸遜は呉郡の名士ではあるものの実績がありませんから、周瑜とは比べものにならないほど格下です。対等に会話するようなことは考えられませんが、顔を合わせたことはあったのではないでしょうか。
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陸遜がいたら勝敗は変わったのか
後に夷陵の戦いで劉備の主力を火計で破るという偉業を達成する陸遜ですから、その能力は周瑜に匹敵すると考えられます。ただ、そんな陸遜の活躍抜きで周瑜は曹操を撃退しているわけですから、陸遜がいたとしても赤壁の戦いの勝敗が変わることはないでしょう。
ポイントは陸遜が加わることによって、より大きな損害を曹操に与えられたのかどうかということですが、これについては、その必要がないほどの周瑜側の大勝利となっています。
陸遜の活躍の場はどこにあるのか
ですから陸遜がいたとしても、曹操との戦闘で特別活躍するようなシーンはなかったと思われます。一将校として戦うくらいでしょうか。実際のところそういった形で陸遜も参戦していたかもしれません。では、陸遜により効果的に働いてもらうとしたら、どのような局面になるでしょう。ひとつ考えられるのは、同盟相手である劉備を、この機会についでに討ち取ってしまうというものです。
恐らく魯粛は大反対でしょうが、陸遜がそのまま劉備を撃退し、荊州南部を制圧してしまえば、周瑜は江陵を抑えた後にすぐに長江をさかのぼって益州に侵攻できます。周瑜の思い描く「天下二分の計」が成立するわけです。
陸遜VS劉備軍
劉備単独であれば勝利することのできた陸遜ですが、これに関羽・張飛・趙雲といった猛将が加わるとそう簡単にはいきません。さらに名軍師である諸葛孔明とも直接ぶつかり合うことになります。ただし、劉備軍の兵力は少なく、土地にも不慣れな状態です。もしかすると早々と荊州を諦め、同族の劉璋を頼って益州に落ち延びていくかもしれません。そして態勢を立て直して、夷陵に侵攻してきます。
史実よりも早く夷陵の戦いが行われることになるのです。周瑜はすでに病没している時期です。劉備は関羽・張飛らを率い、怒涛の如く侵攻し、夷陵を抜いて江陵を落とす可能性もあります。陸遜は一度兵を退いて、戦線を下げることになるでしょう。史実と異なり、劉備が陸遜を破るのです。
三国志ライターろひもとの独り言
かなり話が飛躍してしまいましたが、「陸遜が赤壁の戦いに参加していたら、劉備は巨大な勢力となって侵攻してきた」という結論になりました。
この場合、黄忠と魏延はどうなっているのでしょうか。龐統や法正もどうなっていたのか気になりますね。
もしかすると劉備・関羽・張飛・趙雲・黄忠・魏延・諸葛孔明・龐統・法正VS孫権・魯粛・諸葛瑾・呂蒙・陸遜・甘寧・韓当・凌統による「第二次赤壁の戦い」が行われたかもしれません。
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