陸遜(りくそん)といえば、呂蒙(りょもう)の跡を継いで荊州攻略や夷陵の戦いで活躍した重臣です。三国志演義でも活躍しているのでファンも多いと思います。そんな陸遜、荊州攻略以前はどんな人生だったのでしょう?
今回はその点にスポットを当てようと思います。
この記事の目次
陸氏は名家だった
陸氏は揚洲呉郡(現在の蘇州市)でも「四姓」と呼ばれるほどの名家でした。陸遜(230年頃までは議という名でした)の父は傍系の出で優秀な人物と評判でしたが、陸遜が幼い時分に亡くなります。
陸康(りくこう)は袁術と対立
その後は本家筋の蘆江(現在の合肥市)太守・陸康の元に身を寄せ育ちますが、陸康は袁術と対立し、当時袁術の元にいた孫策(そんさく)に攻められます。
陸康はじめ陸氏が立てこもる舒は2年間包囲され陥落。
陸康はその後すぐに病で亡くなりました。
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孫策の攻撃が本格化する前に陸遜は脱出
孫策からの攻撃が本格化する前に陸遜は一族共に蘆江を脱出。
本家筋に近い年長者として、呉郡に戻り離散した陸氏一族を束ねる立場になりました。
とはいうものの、陸康の没年から考えて当時はまだ13歳くらい。
孫策の包囲網で一族は大勢亡くなっており、相当苦労した事は想像に難くありません。
陸遜が孫家と配下になったのはいつ頃?
呉郡はその後孫策の勢力下に入りますが、陸遜は孫策存命中は旗下に加わっていません。
孫権の代になった203年頃から仕えはじめました。
これは江東を治めるために「四姓」の名声を得たかった孫権からの要請があったためかもしれません。
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陸遜の功績
陸遜は東曹・西曹の令史(人材登用部署の実務担当)を勤めたのち、海昌(現在の海寧市)を治める事になります。
民をとても大切にして農業を奨励する統治を行ったと伝わっています。
また孫権軍の慢性兵力不足解消(中原に比べ江東は今でいう過疎地域でした)を目的に、
会稽郡や鄱陽郡での山越の反乱を平定し、2000人以上の兵士を自軍に組み込みました。
この功績から定威校尉(二千石程度の高級武官)に出世します。
ちなみに山越とは越国(現在の浙江省一帯)の末裔の漢民族を指します。
山越討伐を孫権に進言、そして平定
その後も軍勢強化のための兵士獲得手段として山越討伐を孫権に進言し、丹陽・会稽・鄱陽で討伐と募兵を行い数万人の精兵を得ました。
孫権に対しての反乱も収まり、治安強化にも成果がありました。
この頃孫権は孫策の娘を娶らせています。
陸遜は出生して行き、遂に関羽と戦う
こうして陸遜は孫権の中央幕僚へと出世していきます。
呂蒙と共に関羽と戦う頃は36歳。
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陸遜の人柄
この後は呉の重鎮として活躍していきますが、政治のスタンスとして刑罰よりも礼を重んじたそうです。
当時は何事も刑罰を明らかに…という風潮が強かったそうですが、
陸遜は罪を犯した者にも挽回の機会を与える事を奨励していました。
人望も人徳もあった人だったそうです。
これまでの彼の半生を見るに、相当苦労して世の中の様々なものを見て経験したからこそ、だったのでしょうね。