魏志倭人伝をきっかけに邪馬台国と卑弥呼の存在が明らかになりましたが、
21世紀になっても未だに邪馬台国(やまたいこく)の所在地が判明されていません。
それは魏志倭人伝の旅程通りにその位置を辿ると邪馬台国の場所は奄美大島あるいは
ニューギニアあたりに指針されており、邪馬台国の所在地の解明が混乱化しています。
この記事の目次
何で邪馬台国の場所が特定出来ないの?
魏志倭人伝に記されている旅程距離のほとんどが里数で記されているのに、
何故だか突然、不弥国から邪馬台国までの距離だけが日数で書かれているのです。
どう考えてもおかしいですよね?
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何で魏志倭人伝の旅程距離の記述がおかしいのよ?
この里数から途中、「何らかの理由」で日数を故意的に魏志倭人伝に記したという説。
魏が親密な関係である邪馬台国を敵対している呉に対して、
すぐ東方海上にあるように見せかけ呉の背後に魏との同盟国が存在するという牽制(けん制)するためという説もあります。
と言うのは、以前、当サイトでも掲載した
(曹操と孫権の合肥を巡る戦いが何度も行われていた)4回にも渡る呉・孫権による
魏との合肥を巡る対立が起こり216年には遂に曹操と孫権が直接対決もしている。
結果的に勝負がつかない戦は呉と魏の国力を疲弊しきり結局、
和平を結ぶ事になりましたが、230年以降、呉は魏に何度も侵攻を繰り返しています。
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何で呉はしつこいくらい魏に侵攻したの?
237年に遼東(りょうとう)の公孫淵が魏に背き勝手に独立宣言をしました。
元々、遼東は中華園の北東端にあるので、当時の漢・魏は中華王朝から絶域とみなされていたことから、
公孫一族は好き勝手にやっており、地方政権として確立していきました。
唯でさえ、敵対国の呉の対応で忙しいのに、
更に背後の敵にも兵力を割かないといけません。
また公孫淵が燕王(えんおう)と名乗りだし、
呉と共鳴をし手を組む可能性もあったことから当時の魏の皇帝・曹叡(そうえい)は
最強ジョーカー司馬懿(しばい)に公孫淵の討伐を命じました。
司馬懿が出陣していなくなった呉にとってはチャンスです。
238年・司馬懿が公孫淵を討伐に行き成功すると、すぐに邪馬台国の卑弥呼が魏に使者を朝貢させ、
司馬懿のおかげで東夷諸国との外交が50年ぶりに復活しました。
しかし翌年239年に魏にとって衝撃的な事が起こります。
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239年・魏の曹叡死去
司馬懿に公孫淵討伐を命じた魏の皇帝・曹叡(そうえい)が早死してしまいます。
魏の内側から動揺も見えるので、呉はこれを更にチャンスだとつけ込み、
魏への侵攻が活発化し、これがボディーブローのように魏にとって負担になってきます。
241年の夏には孫権が大規模な魏侵攻を行いました。
諸葛瑾を呉の大将軍に就任させ、荊州方面に軍を展開し、魏の柤中まで占領しました。
魏にとっては一大事の出来事です。
少しでも呉からの侵攻を牽制させるために、
邪馬台国を呉のすぐ東方海上にあるように見せかけたいので、
魏志倭人伝の里数を途中から日数に変え、現代の我々にとっては邪馬台国の場所が特定出来づらくなったという説があります。
あれ?
でもこの記事のタイトルは「曹真が余計な事をするから」
邪馬台国の所在地が分からなくなった?です。
曹真(そうしん)と司馬懿の功績が魏志倭人伝にも影響したのではないか?
という説もあります。
司馬懿は、西晋の礎を築いた人物であり、
ある意味、三国志を終わらせた人物とも言えます。
三国志演義でも孔明との良きライバルとして活躍し、
三国志の初心者も「司馬懿」の名前は一度は聞いた事あるかもしれません。
なので、今回、司馬懿の人柄や功績、彼の歴史については長くなるので今回は省略します。
でも、曹真って言われても、どんな人物なのか、三国志初心者には分かりづらいと思います。
今回、司馬懿の経歴は省きますが、曹真の経歴は紹介させて頂きます。
曹真(そう しん)ってどんな人?
曹真(そうしん)は魏の武将です。
曹操・曹丕・曹叡と3代に仕えた重臣で、魏の2代目皇帝・曹叡が即位すると
曹真は大将軍にまで昇格しています。
そして大将軍になった曹真は、蜀の北伐から領土を守り続けていました。
曹真は蜀軍から領土を守り撃退した功績により230年には大司馬(だいしば)になりました。
この役職は非常に名誉な事です。
また、曹真は寛容で且つ謙虚な人物であったようで、曹真の部下からは人望が大変厚く、
曹真が率いる軍の団結力は強固なものでした。
大司馬(だいしば)って何?
大司馬は中国王朝の官位の最高位の三公と呼ばれる役職です。
職務は軍事を取り仕切る国防長官のような軍事に関する最高権威です。
この最高権威がどれほど威厳があるのか?
帯剣したままの昇殿と、宮殿内で早足で歩かなくてもよいことを認められました。
当時の宮殿内では、皇族でも臣下は屈んで早足で歩かなければならなかったのです。
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曹真と曹操の出会い
曹操が挙兵した際に曹真のお父さん・曹邵(そう しょう)も一族として一緒に参戦しました。
しかし不運な事に董卓派だった黄琬(こうえん)に父・曹邵は殺害されてしまい、
まだ若かった曹真が、あまりにも可哀想だという事で曹操は自ら引き取って
息子同然のように養い、曹丕と同じように日常生活を共にさせました。
順調に成長して行った曹真は、曹操と劉備が漢中を巡る戦でも曹操に従い劉備軍と戦いました。
また劉備の別機動隊を破るなど信頼を曹操から得ております。
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曹真は異民族国家/大月氏国(クシャン朝)を魏に帰順させる
曹操→曹丕→曹叡 と仕えた曹真は順調に大将軍まで昇格。
更に彼は魏の最大の功績を挙げることになります。
曹真は西アジア方面担当しており、遂に大月氏国(クシャン朝)を魏に帰順させる事が出来ました。
大月氏国(クシャン朝)は現在にアフガニスタン・パキスタン・北インドなどにまたがる大帝国です。
大月氏国の使者が魏に朝貢し、遥か彼方からの大帝国の朝貢に
魏・曹叡は大変喜び「親魏大月氏王」の称号を送っています。
この功績で魏の家臣団の中で一気に得点を稼ぎ偉大な功績を残す事になりました。
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司馬懿の邪馬台国の朝貢と曹真の大月氏国の朝貢
邪馬台国には親魏倭王、大月氏国には親魏大月氏王の称号を送った魏の皇帝・曹叡ですが....
さて、司馬懿と曹真の各異民族の朝貢を比べてみましょう。
大月氏国(クシャン朝)は国の面積も広く、邪馬台国の日本の面積と比較してしまうと
どうしても司馬懿の功績が見劣りしてしまいます。
魏志倭人伝が作られたのは晋の時代
魏志倭人伝を含む三国志の正史が作られたのは晋の時代です。
魏を正統な国家として扱い、魏から皇帝の座を引き継いだ晋の皇帝である
司馬氏の正当性を周知させるために作られた歴史書ですから、晋の礎を築いた
司馬懿の功績が曹真に見劣りしてしまうと、司馬懿による政権交代が不都合にもなります。
そこで、曹真の功績と比べても見劣りしないよう
邪馬台国がいかに遥か遠い国からやってきた巨大国であるというのを記す為に
里数を途中から日数に変えたという説です。
司馬懿が公孫淵を討ったことにより東夷諸国との外交が回復し、邪馬台国が中国の皇帝にも認知されるようになり称号も得ましたが、もし、曹真が大月氏国を魏に朝貢させなければ、司馬懿の功績と比べられる事もなく邪馬台国の正確な位置を記したかもしれませんね。
しかし、敵対していた呉を牽制(けんせい)させるために同盟国の邪馬台国を呉の背後に位置させた説もあることから、邪馬台国は当時の時代の影響を大きく受け、現代の私達が邪馬台国の位置について翻弄させられるのも、また面白いと私は感じています。
魏志倭人伝に記されている邪馬台国の位置に(奄美大島/ニューギニア)ですが
ないとは思いますが、はじさんの特別企画でクラウドファンディングで資金調達して
邪馬台国発掘調査をしてみたい(アホ
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