三国志の物語には様々な名家が登場します。
「四世三公」と他の追随を許さぬ功績をもった汝南郡汝陽の袁氏や代々尚書などの高官を輩出した楚漢戦争期の十八王の一人である殷王司馬 卬を源流とし後に晋を築く司馬氏、
儒教の始祖と呼ばれる孔子の子孫であり自身も後に「建安の七子」の一人にも挙げられている孔融の一族などがありますが、荀彧に代表される荀氏も非常に有能な一族とされています。
今回はそんな優秀な一読である荀氏のなかでも荀彧の孫にフォーカスしてみたいと思います。
名門一族である荀氏
荀氏は人材の宝庫である豫洲潁陰県中でも頭一つ抜きに出た存在であり三国志の時代には非常に有能な一族であると周囲に知れ渡っていました。
荀氏の名が一躍世に知れ渡ったのは後漢王朝にて当時朝廷内を牛耳っていた悪評高き梁冀一族を批判したことで地方に左遷されたことにより民心の支持を得た荀淑に始まり、その荀淑の8人の子供は「八龍」と称されるほどでいずれも優秀でした。
そのなかの一人であり済南の相(最上位の行政官)になった荀緄の子供が荀彧であり荀彧も推挙され朝廷にて守宮令という役職につきますが董卓の悪政が酷くなり戦火に包まれる前に朝廷を脱出し曹操に仕えます。
曹操は荀彧が袁紹を見限り自身のもとに来た際に大喜びし「わが子房である」と周囲に紹介しています。
子房とは前漢の初代皇帝である劉邦の軍師である張良の字であり張良がいなければ劉邦は天下を取れなかったといわれるほどの人物です。それほどの人物と準えるほどに曹操は喜びました。
曹操のもとで数々の功績を挙げ曹操の天下取りに多大な助力をしますが曹操が公位に就くことに難色を示し二人の関係は悪化、そのまま改善することなく荀彧は亡くなってしまいます。
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厚遇された荀彧の孫
荀の死後荀彧の長男である荀惲が父の侯位を継いで魏の政権に参加します。
この荀惲は曹丕の弟である曹植と仲が良く互いに詩を嗜む仲でした。曹操との後継者争いにて曹丕と曹植の関係が険悪となっていった際にも曹植と親密な関係を保っていたことから曹丕は荀惲のことを快く思っていなかったようです。
荀惲が死去するとその息子であり荀彧の孫にあたる荀甝が侯位を継いで散騎常侍に任命されます。この荀甝は曹丕の外甥に当たるため弟の荀霬と共に文帝となった曹丕から厚遇されます。
その後、荀霬は広陽郷侯になりますが30歳の若さで早世してしまいます。
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司馬懿にも重用され次世代の晋でも活躍する筍氏
先ほど紹介した荀霬の妻は司馬懿の娘であり司馬師・司馬昭の妹でもあります。そのため司馬懿がクーデターを起こし魏の実権を握ると縁戚関係から中領軍にまで引き立てられその子供である荀愷も厚遇されます。
あの司馬懿がなんの考えもなく娘を嫁がせるということは考えにくいため司馬懿としても豫洲潁陰県の名門である荀氏との関係を強く持っておきたいという考えがあったのではないでしょうか。
また荀彧の第6子にあたる荀顗は司馬懿とその息子である司馬師と親密な関係となり曹魏からの簒奪に協力し晋の建国及びその基礎固めに貢献し祖父や父を支えた忠臣として司馬炎から臨淮公に格上げされ、侍中・太尉に任じられるほど評価されました。
司馬懿からも「荀彧の息子だけのことはある」と評価されており司馬一族から寵愛を受けています。このように筍氏は曹魏だけでなくその後の権力者である司馬一族からも寵愛を受け続けます。
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まとめ
荀氏は三国志の名門一族の中でも非常に有能な一族であることが知られており代々に渡り数々の功績を挙げます。特に荀彧は当時の天下人であった曹操をその王佐の才でサポートしその実績は後世に知られています。
またその子供たちや孫、その先に至るまで当時の朝廷を支えるとともに当時の権力者から厚遇を受けます。これは曹操が荀彧を重用し自身の娘である安陽公主を荀彧の息子である荀惲に嫁がせたことから、荀彧の孫にあたる子供たちは曹一族と血縁関係となることも影響していると考えられます。
三国志ライター ボス吉の独り言
この流れは後の司馬一族にも受け継がれており当時の権力者と縁戚関係となることで厚遇されます。荀彧は最後に曹操と反目し不仲となってしまいましたが、その後の荀氏一族は当時の権力者とうまく関係を保ち乱世を生き抜いていったという印象を受けます。
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