魏の武将、「鄧艾」と「鍾会」はともに蜀征伐に赴いた武将です。
しかし、二人の出自は全然違い、また因縁の相手でもありました。特に鄧艾の最期には鍾会の行動が深く関わってきます。今回の記事ではそんな二人の関係性について探ってみようと思います。
裕福ではなかった鄧艾
鄧艾は早くに父を亡くし、母子で裕福とは言えない生活を送っていました。そんな時、生まれ故郷を曹操に侵略され、鄧艾母子は「屯田民」(移住させて新田開発をさせる)として別の場所に移住させられることになったのです。
鄧艾は12から13歳くらいの時に役所に出仕することになったのですが、言葉がうまく出ない「吃音」というハンデを背負っていました。
吃音の為か周囲に疎まれていましたが、山や沼を測量し、地図に有事の為の印をつける趣味も持っていました。
あるとき都へ行く機会を得て、そこで当時の魏の権力者「司馬懿」に謁見するチャンスも得ます。鄧艾はその謁見で才能を認められ、中央で出世していくことになります。
農政で力を発揮し、将軍職に転じた後は、異民族の慰撫や謀反の鎮圧、蜀による北伐の対応で功績をあげています。
名門出身のサラブレッド、鍾会
鍾会の父は魏の建国の功臣の1人、「鍾繇」です。
鍾会は子供のころから母親の影響で勉学に励み、「並外れた人間」と評価されていました。
20歳の時に若くして朝廷に出仕し、その才能と父の功績によりとんとん拍子に出世していくことになります。
謀反の鎮圧等で主に策略を持って活躍し、「張良(前漢劉邦の軍師)の様だ」と称されました。
しかし、朝廷に悪口を吹き込み人を追い落としたり、自分の功を過剰に誇ったりすることもあったようです。また、人の筆跡をまねることもできたと言われています。
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鄧艾と鍾会、蜀征伐に赴く
263年、魏の司馬昭は国力の衰えた蜀を征伐することを決意します。その命を受けたのが鄧艾と鍾会でした。
魏軍は緒戦は次々に城を落とし、蜀の名将姜維を撤退させるなどしました。
しかし、姜維は蜀の要衝にて天然の要害「剣閣」に籠り抵抗をしました。
姜維は頑強に抵抗し、なかなか剣閣を落とすことが出来ません。
鍾会は撤退も検討しましたが、鄧艾はある提案をします。それは剣閣を迂回し、前人未到のルートで蜀の首都成都に迫ろうというものでした。
鄧艾はその策を実行し、困難を乗り越え蜀に到達。
諸葛亮の息子などを撃破し、ついには蜀の君主劉禅を降伏させ、蜀を滅亡させます。
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鄧艾、蜀の地で逮捕される
蜀征伐に成功した鄧艾、鍾会には大きな褒賞が与えられました。鄧艾、鍾会は昇進し、鄧艾は2万戸、鐘会は1万戸の加増を受けました。
また、鄧艾は蜀支配の主導権を握ることになります。やはり功績の大きさは鄧艾が評価されることになり、鍾会は悔しい思いをしたのかも知れません。
鄧艾は蜀の地で勝手に官位を与えたり、呉侵略の準備を意見するなど独断専行が目立つようになり、ついには謀反の疑いで逮捕されてしまいます。
この鄧艾の独断専行を糾弾し、上奏(朝廷に伝える事)したのは鍾会だったとされます。
また正史「三国志」の注に引用されている「世説新語」という逸話集では鍾会が鄧艾、司馬昭の筆跡を真似、鄧艾を陥れた、ということになっています。
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