キングダムでお馴染みの春秋戦国時代に至る前、中国は周という王朝が立ち、
700を数えたという邑(都市)の盟主という形でした。
しかし、周がどのように興り、そして滅んでいったか?はあまり知られていません。
そこで、ざっくりと周の成立から滅亡までを追ってみましょう。
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この記事の目次
周はどこから起きた王朝?
周王朝の伝説上の先祖は后稷(ごしょく)という人物で、三皇五帝の1人である
帝舜(てい・しゅん)に仕えて農業事業に功績がありました。
その領地は現在の陝西(ちんせい)省 宝鶏(ほうけい)市にあり、
ここは、古名を西岐(せいき)と言います。
そこから12代の後、古公檀父(ここうたんぽ)という人物が登場して、
後に洛陽となる土地である洛邑に拠点を定めました。
陝西省宝鶏市から洛陽までは553キロもありますので、
西岐が著しく勢力を伸ばしたという事が分かります。
古公檀父には、3名の息子がいましたが、その中で季歴(きれき)という末っ子がいて、
彼に息子が産まれた時、様々な縁起の良い事が起きたようです。
古公檀父は「わが一族を栄えさせるのは季歴であるとして」季歴に家督を譲ります。
季歴の子供というのが、後の文王である姫昌(きしょう)です。
文王は勢力を広げて西伯(せいはく)になり、息子の武王が殷を滅ぼす
姫昌は祖父の古公檀父のめがねに違わず、姜子牙(きょうしが:太公望)などの
助けを得て領土を拡大していきます。
殷(いん)は、姫昌を懐柔しようという思惑もあり西伯という称号を与えます。
この時点ですでに西岐の勢力は殷よりも遥かに強くなっていました。
しかし、姫昌は、義理を立てたのか寿命が尽きたのか殷を倒す事なく病死します。
ですが、子である姫発は、殷の帝である帝辛(てい・しん:紂王)が暴虐で
民を虐げているとして、軍を発し、各地の諸候をまとめて殷の都である朝歌に
侵攻し、牧野の戦いで帝辛の軍勢を破り、殷を滅ぼします。
こうして、周王朝が建国されました、紀元前1046年の事です。
武王は都を鍋京(こうけい:長安付近)に定めますが間もなく病を発して病死します。
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周公旦が幼い成王を輔弼して周の体制は定まる
武王は若くして死んだので、息子の成王(せいおう)はまだ幼少で政治を見れません。
そこで武王の弟の周公旦(しゅうこう・たん)が後見として斉王を補佐します。
途中で三監の乱のような不満分子の内乱もありましたが周公旦はこれを鎮圧し
7年後、無事に成王が成人すると政権を返上します。
周は成王と息子の康王(こうおう)の時代にもっとも治まり40年間も善政が続き
刑罰を受ける人間は一人もいなかったと伝えられています。
遂に、政権を奪わなかった周公旦は臣下の理想とされ、
特に孔子に賞賛された事で聖人として、後世の中国で理想の人物とされました。
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暗君が続く周は没落の道を進む
しかし、建国から200年程が経過すると周も乱れ暗君が登場します。
10代の周王である厲王(れいおう)は横暴にして強欲な王で、家臣に分けるべき
宝物を独り占めしたり、少しでも民が自分を批判すると容赦なく処刑したので、
人々は言葉を出すのを恐れ、アイコンタクトでお互いの意志を伝えたと言います。
もちろん、こんな政治が長く続く道理もなく紀元前842年には、庶民の怒りが
爆発して、周の王宮に国人が乱入して厲王を殺そうとする事態になります。
厲王は、びっくりして鍋京を逃亡して黄河を渡って亡命します。
王が不在になった周では、賢臣である為に厲王に遠ざけられていた、
召公(しょうこう)と周公(しゅうこう)が代理として政治を見る事になります。
紀元前828年に亡命していた厲王が死去し、王がいなくなったので、
二人は厲王の息子である姫静(きせい)を立てて、彼は宣王(せんおう)になります。
幽王の時代に周は分裂
宣王も最初は良かったのですが、年を経ると政治に飽きてしまいます。
さらに、宣王の後を継いだ幽王(ゆうおう)は、強国である申(しん)から
貰った王妃を廃して、褒姒(ほうじ)という絶世の美女を妃にしました。
これに対して、申公(しんこう)は激怒して異民族である犬戎(けんじゅう)を伴い、
鍋京を攻撃し、幽王は殺され、褒姒の息子の伯服(はくふく)も殺されました。
申公は、自分の娘が産んだ王子である携王(けいおう)を鍋京で即位させます。
これを西周と言います。
一方、申公の暴虐に怒った諸侯は幽王の子の宜臼(ぎきゅう)を擁して
平王(へいおう)に即位させ東の洛邑に都を置き東周を起します。
両者の戦いは紀元前771年から759年まで12年も継続しますが、
結果、東の平王が携王を倒して、再び周は統一されます。
ですが、諸候の力を頼らないと王位も奪還できない周には力はなく
すでに洛邑周辺を抑えるだけの弱小国に転落したのです。
ちなみに紀元前770年をもって、中国は下剋上の春秋時代に入ります。
周は諸候に権威を与えるだけの存在になり下がる
周は、平王の孫である桓王(かんおう)が紀元前707年に一諸候に過ぎない
鄭(てい)に繻葛(じゅかつ)の戦いで敗れた事で、僅かに残った求心力も失います。
こうして、実力は皆無になった周ですが、諸候に地位や称号を与える
権威としての地位は保持していました。
ところが、時代が戦国時代に入ると、それまで遠慮して王を名乗らなかった
戦国七雄が堂々と王を名乗るようになり、周は権威も失います。
小さな周は、本家と東と西に分かれて抗争を繰り返す
周の勢力範囲は、僅かに洛陽の周辺に限定され抗争を繰り返す
諸侯を止める力もありませんでした。
ところが、こんなに小さくなった周は紀元前441年、東周16代の
定貞王(ていていおう)の時代、再び息子達が王位継承を巡って争い
短期間で王がめまぐるしく変わってしまいます。
結局、定貞王の三男の孝王(こうおう)が19代として即位し
彼は自分の弟の桓公に領土を分け与えて西周としました。
さらに、桓公(かんこう)の孫の恵王は末っ子に西周の東の領地を与えています。
これを東周と言います。
本家の周とは別に生まれた東西の周は、東周君と西周君と呼ばれますが、
とても仲が悪く、さらに狭い領域で抗争を繰り返す事になります。
紀元前256年、周は事実上滅亡する
本家の周は、分裂した東西の周よりも勢力が弱くなり、周の最期の王である
赧王(たんおう)は、西周君の武公(ぶこう)を頼り西に遷都します。
ところが、西周君の武公というのは身の程しらずだったのか、当時、
天下統一寸前だった秦が韓を攻めているのを諸国と協力して妨害します。
これに怒った秦の将軍の摎(きゅう)は周を攻めました。
驚いた武公は、急いで秦に向かい、無礼を詫びて西周と本家の周の領土を
全て秦に与えてしまいます。
赧王は形の上は、秦の保護に入りますが間もなく失意の間に死にます。
秦の昭襄王は、洛陽から王権の印である九鼎を咸陽まで移動させます。
これにより周は完全に滅亡しました。
この時点では東周は残っていましたが7年の後に東周の昭文(しょうぶん)君が
楚を中心に六カ国連合を結成しようとして失敗し秦に捕らわれてしまい、
ここで東周も消滅します。
三国志ライターkawausoの独り言
滅亡した周ですが、大した抵抗をしなかったせいか、
一族が皆殺しになる事はなく祭祀は細々とながら続けられたようです。
また、王権の象徴である、でかい三本足の鍋である九鼎ですが、洛陽から咸陽に
運ぶ途中で水没してしまい二度と浮かび上がらなかったとも言われます。
そこで始皇帝は九鼎に代わる権力の象徴として玉璽を産み出したそうです。
本日も春秋戦国の話題をご馳走様でした。
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歴史ライターとして、仕事をし紙の本を出して大当たりし印税で食べるのが夢です。
もちろん、食べるのはサーモンです。