諸葛亮の北伐は亡き劉備の遺志を継いだもので、漢王朝の復興を目指したと言われています。
諸葛亮の没後は蔣琬、費禕がそれぞれ国のトップに立ちますが、蔣琬は病気もあり北伐の構えこそ見せるも結局は一度も出兵せずに費禕に交代。
費禕はそもそも北伐反対派で、最後にそれを引き継いだのが軍事の全権を得た姜維でした。しかし、諸葛亮と姜維の北伐には異なる点も多く、同じ北伐でも2人の目指していたものは違っていたように思います。
そこで今回はそれぞれの北伐についての考察と諸葛亮自身の意思がどこにあったのかを探っていきます。
諸葛亮と姜維の北伐の相違点
諸葛亮は7年間(228年〜234年)に5回、姜維は自身が軍権を得る前の細かなものも含めると、23年間(240年〜262年)で11回の北伐を行っています。ちなみに軍権掌握後は6回。
平均すると諸葛亮は1年3ヶ月に1回、姜維はほぼ2年に1回のペースで北伐をしている計算です。そう考えると諸葛亮の方が頻繁に遠征をしているのですが、基本的に諸葛亮は大きな損害を避けていました。
1度目は馬謖が街亭で敗れるとすぐに全軍撤退を決断していますし、2から4度目は局地戦を行っただけ。5度目は魏が動かずにそのまま病没と負けた回数は多いものの損害は少なく、1度目も西県を制圧して民を移住させるなど一定の成果を上げています。
姜維の北伐はペースこそ遅く感じますが、247年から250年、253年から257年の間は毎年出兵をするなど短期間に連続して行われ、時には成果があったものの大きな損失を伴う敗戦もありました。
こうして国力を削ったことが蜀を滅亡に追い込んだという理由で姜維を戦犯扱いする意見もあります。
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北伐時の進軍ルートの違い
諸葛亮は5回の北伐のうち関山道から祁山に2回、陳倉道から陳倉、褒斜道から五丈原へそれぞれ1回ずつ進軍しています(残り1回は西方の武都と陰平方面)。
姜維はというと基本的に諸葛亮よりも更に西側、戎道県や臨洮県などがある隴西郡が中心。特に費禕が軍事トップにいた頃は1万ほどの兵力しか与えられず、遠征には羌族の援軍や反乱に乗じるといった作戦で戦力を補うしかありませんでした。
ただ、姜維の一族である姜氏は涼州における名士であり、その威名も羌族と手を組む際に有効だったようです。そのため、まずは雍州西部から涼州へ続くルートを確保し、異民族や涼州軍閥の反乱を扇動して益州、雍州、涼州の兵で長安を目指したのではないかと思います。
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劉備の遺志と諸葛亮の意思
姜維の北伐は本気で魏の打倒、あるいは長安の奪取を目指していたと言えるでしょう。
しかし、諸葛亮の場合はそうではなかったようです。諸葛亮は劉備の遺志である漢王室の復興を目指したわけですが、益州しか領有しておらず夷陵の戦いで多くの将兵を失った状態ではどう考えても目標達成は不可能。
そのため、表向きは劉備の遺志を継いで北伐という形を見せたものの、諸葛亮個人としては蜀漢を存続させるという意思で行動していたのではないでしょうか。
蜀漢の滅亡は司馬昭と鍾会が戦力をしっかり分析し、明らかに国力が衰えている瞬間を狙われました。
もともと巴蜀の地は天然の要害であり、攻めにくく守りやすいと言われていた場所で、魏軍が南進した数が少ないことからも力押しには抵抗があったように感じます。
そこで諸葛亮はあえて国力を削る北伐を敢行することで、蜀漢にはまだ力があることを敵に見せつけて国を守っていた。加えて、蜀漢が漢王朝を正統に継ぎ、魏を打倒しようとしていることを民衆に知らしめるPR活動も同時に行っていたのです。
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『見せ札』としての北伐と『命を削る』北伐
諸葛亮はあくまで北伐を見せ札として使っていたので、国力を大きく削ぐ戦い方はしませんでした。
魏延の長安奇襲作戦のようなリスクのある作戦を採用しなかったのも蜀漢存亡という自らの意思に反するものだからでしょう。
しかし、諸葛亮のそういった考えは蔣琬以降のトップには伝わらなかったのか、姜維は死力を尽くして魏を倒そうという一か八かの賭けを長年に渡って繰り返しました。それが国を大きく疲弊させ、魏に攻める機会を与えるとも知らずに。
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【北伐の真実に迫る】
蔣琬と費禕の北伐
本題からは少し外れますが、諸葛亮の意思がそれ以降の軍事トップに反映されていなかったことを示すために蔣琬と費禕の北伐についても取り上げます。
まず蔣琬は諸葛亮の北伐は兵糧運搬に難があることから、漢水を下って上庸と魏興を襲撃することを考え、多くの船を用意。ただ、これは費禕らの反対があったのか、それとも本当に自身の病が原因なのか実行には至りませんでした。
最終的には荊州方面へ出て呉と連携するつもりだったのかもしれませんが、こちらも諸葛亮のように魏に力を見せつけるための作戦だったとは言えないでしょう。
費禕の場合は謎が多く、北伐反対派だったにも関わらず費禕がトップだった際に、姜維は4度の北伐を行っています。主に隴西方面へ侵攻していますが、これが費禕の指示だったのかはわかりません。
軍律違反者を処刑できる権限の仮設が与えられていることから、全てが姜維の独断というのも違うはず。ただ、姜維の行動を制限して国力を大きく削らないようにしたという点では諸葛亮に近い方針だったかもしれません。
しかし、魏はそれほど脅威には感じなかったはずなので、諸葛亮の意思は誰にも伝わっていなかったと言えます。
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三国志ライターTKのひとりごと
諸葛亮としても漢室復興という蜀漢建国における大義名分に反することは、大っぴらに言えません。また、蜀漢存続の先にあるゴールが見えない状態では、その意思を継がせることもできなかったでしょう。
ただ、見方によっては諸葛亮のポーズとしての北伐が、意図を理解していなかった後継者たちが無謀に行い、結果的に滅亡の道を歩んだとも言えます。諸葛亮にとっては皮肉な話かもしれませんが。
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