「三国志」の一角を占め、小説「三国志演義」では主役級の扱いをされる「蜀」。しかし、史実では三国の中で真っ先に滅亡してしまい、「蜀は弱い」というイメージがある人も多いことでしょう。
今回の記事では「蜀が弱い」と言われる要因を魏や呉と比較しながら探っていこうと思います。
この記事の目次
「蜀」建国の経緯
曹操率いる「魏」が「中原」(漢の都を含む)エリアを制覇し、孫権(呉)が呉の地方に確固たる勢力を築いていたころ、「益州」と言われる地方は「劉璋」が支配していました。
諸葛亮は劉備の配下になり、魏と呉、そして劉備で中国を三分割する「天下三分の計」を提案しました。そこで目をつけられたのが「益州」でした。
劉璋はあまり優秀な君主とは言えず、劉璋配下たちは劉備を益州に迎えることを計画。劉備はそれに応じ、益州を奪取したのです。こうして天下は「曹操の魏」「孫権の呉」「劉備の蜀」と三分割されることになったのです。劉備が皇帝に即位したのは221年の事でした。
関連記事:魏延が暗殺しようとした劉璋とはどんな人だったの?
関連記事:劉表や劉璋が天下を取れなかったのは無能だからではなかった!
領土の広さと動員兵力の違い
天下は三分割されたというものの、三国の国力の差は大きなものでした。領土の広さでいうと魏は当時中国の11州を支配し、呉は4州を支配していました。対して蜀はわずか1州。
また、魏は中原と言われる当時の最先端地域を支配していました。
当時の推定人口は
魏452万人
呉230万人
蜀90万人
と言われています。
蜀と魏は5倍ほどの人口の差があり、動員兵力もそのぐらいの差があったと考えられます。これだけ見ても「蜀が弱い国」といわれても仕方がないのかもしれませんね。
関連記事:【三国志時代の人口算出】駱統の行政手腕
関連記事:黄巾の乱から増える戦死者、三国志時代が人口減少を招いたの?
人材の差
曹操は早くに漢の献帝を手中にし、天下に近づきました。これにより彼の元には多くの人材が集まっていきました。呉はその地域の私兵をもつ豪族の集合体の国家であり、昔からの豪族が孫権の基に団結していました。
一方蜀は劉備が放浪の期間が長かったせいもあり、いわゆる「子飼いの武将」が不足していました。益州を手に入れ、多くの人材も傘下にいれたものの、魏に比べれば明らかに劣っていました。
その為諸葛亮が「軍事、内政、人材登用、外交」と国の重要事項をすべて担当しなければならず、彼に頼る国家となってしまいました。
諸葛亮は自分の死後をになう人材として「蔣琬」「費禕」を指名し、彼らはなんとか国を維持するものの、彼らの死後は人材がおらず、国は衰退を加速させていきました。
関連記事:曹操の同化推進政策がマイノリティ人口問題を引き起こした!?
関連記事:「後漢の州人口」から読み解く群雄の力!曹操が袁紹の本拠地を欲しがった理由も分かる!
天然の要害だが・・・
蜀の地は「天然の要害」と言われ、攻め込むのにとても難しい土地でした。実際、魏が蜀に侵攻した際にも「剣閣」と言われる要害で苦戦し、侵攻が遅れています。
しかし、「守りやすい」という事は「攻めにくい」という事で、蜀から魏に攻め込む道は殆ど整備されておらず、「桟道」といわれる崖に木を通したような心もとない道を通ることを余儀なくされました。
それに加え兵糧の補給の問題もあり、何度も魏に攻め込む「北伐」はおこなわれたものの、兵糧の問題で撤退したこともありました。
関連記事:「蜀の桟道」は三国志での守りの要?諸葛亮が桟道を整備した経緯と桟道の役割を解説
関連記事:危険な道「蜀の桟道」はどうやって作る?どう使った?
蜀の劣勢を挽回するための施策とは? 1.経済
当然諸葛亮たちも蜀が弱いことは十分承知しており、なんとか魏に対抗しようと様々な対策を練っています。先ずは経済を安定させるため「塩と鉄の専売制度」を導入しました。塩は生きる上での必需品であり、鉄は武器を生産するのに必要なものでした。
劉備が蜀に入る前は塩や鉄の生産販売は大商人や豪族が担っていましたが、諸葛亮は生産から管理販売まで国で一括して管理することにしたのです。この政策によって国家の財政は潤い、財政的に改善が見られました。また、蜀の特産品である「蜀錦」の生産を管理し、貿易によって利益を得ることが出来ました。
関連記事:塩の密売人というのは冤罪?関羽の密売人説を否定してみた
【次のページに続きます】