董卓の軍師と言えば李儒でしょう。
実際には賈詡もいるのですが、賈詡は董卓の配下牛輔の軍師のイメージです。三国志演義における李儒は頭のキレる悪党で少帝を毒殺するなどブラックな魅力を見せますが、史実の李儒はどんな人物だったのでしょうか?
史実の李儒とはどんな人?ザックリ
では、最初に史実の李儒がどんな人だったのかをザックリと解説します。
1 | 中平2年(185年)に建立された曹全碑に徴博士として李儒という名前が出てくる |
2 | 董卓に廃位された弘農王の郎中令として仕え、弘農王に無理矢理毒を飲ませ殺害 |
3 | 王允と呂布のクーデター後も生き残り李傕・郭汜により献帝の侍中に取り立て |
4 | 献帝は李儒を「皇帝殺し」と指摘し処刑を命じるが李傕・郭汜が取りなし助かる |
5 | 凡庸な李儒は皇帝殺しの一点だけで三国志演義の大悪党に脚色された |
李儒についてのザックリした解説は以上です。ここからは、史実の李儒について、もう少し詳しく見てみましょう。
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三国志演義の李儒
では、最初に三国志演義における李儒について簡単に解説します。
三国志演義の李儒は董卓の娘婿として登場します。
董卓が洛陽を支配下におくと少帝劉弁の毒殺や献帝の擁立、反董卓連合軍が洛陽に迫ると長安に遷都を進言するなど、董卓の悪行には全て関与し、董卓を追撃した曹操を徐栄と迎え撃つなど董卓の軍師として縦横無尽に活躍します。
さらに王允が養女貂蝉を使った連環計も逸早く見抜き、董卓に「小娘1人と呂布将軍とどちらが大事か!」と諫言しますが、董卓は聞き入れず「我々は小娘に滅ぼされるのか」と嘆き、董卓が呂布に殺された後で王允に囚われ四つ裂き刑に処されて絶命しました。
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史実の李儒
一方、史実の李儒には興味深い事実が指摘されています。16世紀の後半に郃陽県の旧城から出土した「曹全碑」という石に刻んだ石碑に李儒の名前が出てるのです。
曹全碑は中平2年(185年)10月21日に刻まれており、内容は黄巾の乱を収拾した曹全という郃陽県令の顕彰碑ですが、ここに同じ県の徴博士として李儒の名前が刻まれているのです。
そして李儒は東晋の歴史家袁宏の「後漢紀」によれば博士であるという記録が見える事から石碑の李儒と三国志の李儒は同一人物ではないかと言われています。
こうした経緯から正史の李儒は董卓が洛陽に入った頃にはすでに朝廷に仕え、弘農王劉弁の郎中令の職に就いていました。三国志に詳しい方はご承知の通り、劉弁は皇帝に擁立されており弘農王になったのは董卓の専横により強引に廃位させられた後の事です。
つまり、李儒が郎中令になったのも董卓の人事によるものと推測できます。
そして「後漢紀」の李儒は三国志演義の李儒同様、弘農王が反董卓連合軍に担がれる事を恐れた董卓の命令で、弘農王に無理矢理毒を飲むように迫り毒殺しました。
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三国志演義より長生きした李儒
三国志演義における李儒は、董卓が長安に遷都してより間もなく、王允の連環計により董卓が暗殺され、巻き添えで四つ裂きにされています。
しかし、後漢紀によると李儒は董卓の巻き添えで死ぬ事なく、王允を滅ぼして長安に攻め上って来た李傕と郭汜により侍中に推挙され、今度は劉弁の異母弟である献帝に仕える事になりました。
ところが、この頃はまだ腑抜けではない献帝は、「李儒は、私の異母兄である弘農王を毒殺した弑逆の罪を犯した、これは誅殺を免れないのではないか?」と李傕と郭汜に処刑を命じます。
これに対し、李傕と郭汜が「李儒は董卓の命令で弘農王を毒殺したのであり、決して当人の自発的な意志ではないから無罪!」という珍妙な理屈を出してきて弁護して、とうとう、うやむやにして済ませてしまったようです。
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凡庸な悪だった李儒
当時の董卓の勢いを考えると、李儒が弘農王を毒殺できなかった場合、逆に李儒が殺された可能性は十分にあると思います。だとすると李儒は自分の死を免れる為に弘農王を毒殺した事になり、三国志演義の自覚した大悪党である李儒とはイメージが大きく変わってしまいます。
しかし、曹全碑に記された学者としての李儒を考えると、董卓の圧倒的暴力に逆らえず思考を放棄し、真面目な人物ゆえに元皇帝の毒殺を淡々とやり遂げた、ナチスドイツの将校アイヒマンのようなイメージも浮かび上がります。
元々、後漢紀の李儒は弘農王の毒殺という一点でキャラが出来上がっている人物で、他の董卓の悪事には関与している様子がないので、真実の李儒は弘農王毒殺を淡々とやり遂げ、そのインパクト故に三国志演義で大きな脚色をされてしまった凡庸な人物だったのかも知れません。
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三国志ライターkawausoの独り言
弘農王の毒殺に関与しなければ、平凡な博士として生涯を終えたかも知れない真実の李儒ところが、董卓の恐怖の前に思考を放棄し誰もが嫌がる元皇帝殺しを成し遂げた事で、李儒は漆黒の悪党として三国志演義において董卓の右腕となってしまいました。
もしかすると真実の李儒は、三国志演義での自身の扱いをとても哀しい目で見つめ続けているかも知れませんね。
参考:後漢紀 三国志演義
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