費禕は諸葛亮亡き後の蜀を支えた人物です。彼は諸葛亮存命中から信頼され、呉へ外交官として赴くこともありました。
その場で実は、費禕と呉の「諸葛恪」との間で舌戦が繰り広げられたのです!
その顛末はどうなったのでしょうか?
今回の記事では費禕と諸葛恪の人生と、二人の戦いについてみてみましょう。
この記事の目次
その能力で諸葛亮の信頼厚い費禕
費禕は江夏郡の出身ですが、親せきを頼り戦乱の少ない益州に移住しました。
そこでのちに蜀に仕える「董允」とともに名声を得ていました。やがて益州を制した劉備に仕え、その死後は劉禅の側近として働いています。
費禕は仕事のできる男で、記録を読んでも素早く内容に精通し、忘れることもなく、しかも遊びながらも職務をさぼりませんでした。
諸葛亮は費禕を信頼し、他の高官や年長者を差し置いて車に同乗させるなどしていました。そして、諸葛亮の命でたびたび呉へ外交官として赴くことになります。
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呉のサラブレッドとして期待された諸葛恪
諸葛恪は呉の功臣「諸葛瑾」の息子で、諸葛亮の甥にあたります(諸葛瑾が諸葛亮の兄)。
若いころから頭脳明晰で有名でしたが、あまり性格はよくなかったらしく、自分の才能を誇ったり、相手を弁論で徹底的に叩き潰すなど好感度は低かったようです。
父の諸葛瑾は息子の才能を認めながらも「家を栄えさせるが、潰すのもこの子だろう」と複雑な感情を持ち、陸遜も直接諸葛恪に「その性格をどうにかしたほうがいいよ。」と忠告したそうです。
しかしやはり才能はあり、異民族討伐などで活躍し、孫権の皇太子の側近としても動いていました。
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費禕、呉で失礼を受ける
ある日、費禕は使者として呉に赴くことになりました。そこで会食の場が設けられたのですが、そこで呉の君主「孫権」はあらかじめ臣下たちに「費禕が来ても無視するように」と小学生のようないじめを仕掛けます。
そして費禕が会食会場に来ても一同は提案通りに彼を無視します。
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費禕VS諸葛恪の舌戦勃発
無視された費禕、呉の一同を見渡し、「麒麟は鳳凰が来たら食事をやめた、と言い伝えられております。しかし、ここの皆は俯いて食べ続けておられる。おそらくここにはロバやラバしかいないのでしょうな。」と嫌味をぶつけました。
皮肉をぶつけられた諸葛恪は思わず「鳳凰が来たと思ったら雀や燕の類だったようだ。しかも鳳凰を自称しておる。弓で撃って、故郷に返してやれ!」と叫んだそうです。
諸葛恪にとっては渾身の皮肉だったかもしれませんが、孫権は「君の優秀な徳によって、必ず蜀を導くことができるだろう」と絶賛したそうです。
おそらく、「無視しろ」と言われたのに思わず叫んでしまった諸葛の負けだったのでしょう。その後、費禕と諸葛恪は互いに詩を書き、ともに絶賛されたそうです。
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