正史三国志や三国志演義を読んでいると、『軍師』と呼ばれる人物がしばしば登場します。
劉備玄徳に仕えた諸葛孔明や、曹操に仕えた荀彧などが特に有名ですよね。
『軍師』とは一体どのような仕事をする人のことだったのでしょうか?
実はアジア特有の職業であった軍師
軍師とは、軍の中にあって君主や将軍の戦略・戦術の指揮を補佐する役割を担う存在です。
中国や日本など、東洋にあっては古来より軍師、あるいは軍師的役割を担う者が見られますが、
西洋においては近代以降、軍に参謀制度が置かれるようになるまで存在していませんでした。
三国志演義などを読むと、軍師の多くは君主からも『先生』と呼ばれ、時に君主よりも上位の存在として厚遇されることもあります。
ただ、西洋の軍制度における参謀と違って、軍師と呼ばれる者の多くは軍内部にとどまらず、政治や経済に関する権限を持っていました。
軍師とは、軍事に限らず国政全体の指導、アドバイを行う存在だったのです。
東洋において軍師が尊重されるべき存在とされたのには、師匠(教える側)が弟子(教わる側)よりも常に上位に立つという、儒教的な価値観の影響が強かったからと言えます。
軍師は時に君主の上に立つ師匠として、特別視されていたのです。
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中国初? の軍師、太公望呂尚
三国志の時代よりも1000年以上も前、春秋時代と呼ばれる時期に活躍したとされる軍師が呂尚です。
当時の大国であった周の文王に招かれて軍師となり、後に斉という国の始祖となります。
呂尚の名を有名にしているのが、周の文王に仕えることになった経緯に関するエピソードです。
呂尚を有名にしたストーリー
ある時、狩りに出かけようとしていた文王は、占い師に狩りの結果を占わせます。
すると占い師は『獲物ではなく、人材を得るでしょう』と告げました。
狩りに出た文王は渭水(黄河の支流)に釣り糸を垂れる、落ちぶれた様子の男と出会います。
文王が声をかけてみると、男はその身なりに似合わず弁舌に冴え、
彼と話し込んですっかりその才能に魅せられた文王は、『これこそ大公(文王の祖父)が望んでいた人物だ』と言い、
そのまま自らの馬車に乗せ、城に連れ帰りました。
この男こそが呂尚だったのです。
呂尚が文王と出会った時に釣りをしていたことから、日本では『太公望=釣り好き』のイメージが定着していますね。
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軍師集団を構成した曹操
後漢末から三国時代に入ると、軍師は正規の役職として置かれるようになります。ことに軍師を重用したことで知られているのが魏の曹操孟徳です。
曹操は人材収集に熱心であったことでも知られていますが、彼は配下に集めた知恵者たちを軍師に任命、参謀集団として政治や軍事に携わらせました。
その参謀集団の中でも特に重用されたのが、かの荀彧の親類にあたる人物、荀攸でした。
彼は曹操によって軍師の筆頭に序せられ、軍事から法制に至る国政に関わるすべての事柄について、決定権を委ねられたともいわれています。
また、曹操は役職としての軍師に並び、新たに軍師祭酒と呼ばれる官職を創設しています。
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軍師祭酒って何?
軍師祭酒はより制度化された専業としての参謀官職であるとされ、郭嘉や陳琳といった名だたる人物がこの職に序せられています。
人材を尊びながらも官僚組織としてより合理化された参謀集団を創り上げる……曹操の合理的な一面がここにも垣間見えていると言えるでしょう。
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長くは続かなかった参謀集団
しかし、参謀集団としての軍師制度も、彼の死後に曹丕が皇帝の地位に即位して魏が成立すると、その役割は変化します。
彼らは都督(方面軍の最高司令官に当たる役職)の監視役としての役割を与えられ、各地へと赴任し、曹操によって創設された参謀集団は解散、その役割を終えたのでした。
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