姓名 | 満寵(まんちょう) |
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字 | 伯寧(はくねい) |
出生 | 生年不詳 |
出身 | 兗州山陽郡昌邑県 |
死去 | 242年3月 |
死因 | 自然死 |
所属 | 魏 |
主君 | 献帝→曹操→曹丕→曹叡→曹芳 |
はじめての三国志でのあだ名 | 微笑みの合肥班長・満寵 |
性別 | 男性 |
関連年表 | 192年 従事となる 208年 奮威将軍・汝南太守となる 219年 安昌亭候となる 220年 陽武将軍となる 222年 伏波将軍となる 224年 豫州刺史となる 229年 前将軍・都督揚州諸軍事となる 230年 従東将軍となる 238年 大尉となる 242年 死去 |
満寵(まんちょう)は法を守らない人物には誰が相手であろうと臆する事無く、厳しく接した政治家でした。後年は、軍人としての道を歩みはじめ、対呉戦線の総司令官に就任し、呉を苦しめます。彼が対呉戦線の総司令官として在任中、孫権(そんけん)は敗れ続け、一回も勝てませんでした。孫呉キラーとして名を馳せた魏の総司令官・満寵(まんちょう)を紹介してきたいと思います。
この記事の目次
政治家として力を発揮
満寵は漢の役人として就職しますが、途中で官職を捨てて曹操(そうそう)に仕えます。曹操に仕えて間もない頃、曹洪(そうこう)の配下が曹一族を後ろ盾に略奪を働きます。満寵は、この事件を聞くとすぐに曹洪の配下を逮捕します。
曹洪が配下を助けようと曹操に相談をするが・・
曹洪がこの配下を助けようと曹操を頼ると、彼はすぐさま曹洪の配下を処刑したのです。曹操は、満寵の行動に大いに感心し彼を褒めたそうです。曹操の重臣で学者として有名であった、楊彪(ようひょう)が逮捕される事件が起きます。
楊彪が逮捕され荀彧と孔融は尋問する際は手心を加えて欲しいと懇願
楊彪が逮捕された事を聞きつけた荀彧(じゅんいく)や孔融(こうゆう)が、当時刑罰を執行する役職に就いていた満寵に尋問する際に、手心を加えてくれと懇願します。満寵は、彼らの提案を一切受け付けず、本気で楊彪に尋問(鞭打ち)を行ったのです。満寵は、訊問をしても楊彪の罪が明らかにならないので、曹操に「罰を与えるならしっかりとした罪状が必要である」と諫言を行った。この諫言に反論できなかった曹操は、楊彪を釈放するのです。罪を犯した人物が高位の人間であったとしてもお構いなく法を行使します。しかし、驕らない性格であったので誰からも嫌われる事無くその後も政治家として能力を発揮します。
政治家から一転して軍人の道を歩む
満寵は、官渡の戦いから軍人として歩み始めます。この戦いの時は、袁家の実家を制圧する功績を残します。その後は、曹仁(そうじん)の参謀として活躍します。関羽が荊州を制圧すべく、侵攻を開始し、荊州はあっという間に、ほとんどが制圧されてしまうのです。関羽は荊州の要所である樊城に水責めを行います。満寵と曹仁は樊城に籠城し、援軍を待ちますが、樊城には兵糧も少なく、樊城を救援にきた援軍も関羽に打ち破られ、絶望的な状況になっておりました。
絶望的な状況の中、満寵は曹仁に喝
絶望的な状況で、弱気になる曹仁を満寵は激励叱咤します。このおかげで曹仁は気力を回復し、戦いを続けます。その後、援軍に来た徐晃(じょこう)が関羽を追い払い、ギリギリのところで陥落を免れました。満寵が居なければ、曹仁の気力が持たず、樊城は陥落していたかもしれません。また樊城が陥落すると、荊州は蜀の領土となり、蜀軍が西と南で北上作戦を決行、東では合肥を狙う孫権軍が侵攻し、魏としてはかなり危うい状況になっていた可能性があります。満寵は樊城の戦い以降、荊州を守備し、孫権軍に備えました。呉が荊州に侵攻した時は、呉軍を打ち破り、荊州防衛を見事に果たしています。魏は、この頃から対呉戦線に満寵を起用しはじめます。
呉軍キラー満寵
曹休(そうきゅう)は石亭の戦いで、呉軍にコテンパンに負けストレスで病を発病し、亡くなります。満寵は曹休の跡を継いで対呉戦線の総司令官に任命されました。満寵が、総司令官になってからも孫権軍は何回も合肥に侵攻してきます。その度に満寵に遮られ、合肥攻略は果たせません。孫権軍は失敗するたびに河を使って退却するため、致命的なダメージを与えられませんでした。そのため満寵は、孫権軍が退却しにくい場所を選び、新城を建築します。合肥新城を建築した直後、孫権軍が侵攻してきます。満寵は、合肥新城の近くに伏兵を設置し、呉軍に損害を与えて打ち払います。だが孫権はこんな程度で諦めません。蜀軍の北伐と連動し、性懲りもなく合肥攻略の軍勢を催します。
陸遜や孫韶など歴戦の将軍を従えて挑んできた孫権
孫権は陸遜(りくそん)や孫韶(そんしょう)など歴戦の将軍を従えて戦いを挑んできます。満寵は皇帝曹叡(そうえい)に必勝の策を献策します。満寵の必勝の策とは「合肥新城を捨てて、内陸部に退却しましょう。孫権が内陸部に追撃を開始したら、一斉に反撃します。いかがでしょうか」と進言しますが、曹叡はこの策を退けます。満寵は曹叡に策を退けられたが、次の作戦を決行すべく行動を開始する。孫権軍は合肥新城を包囲し、ゆっくりと攻撃を開始します。
満寵は、包囲作戦を取った孫権軍に対し、自ら少数の兵士を率いて風上から火計を行い、攻城兵器を焼き払います。さらに孫権の甥を討ち取る功績を残しています。孫権は包囲作戦を辞め、合肥新城に猛攻を開始します。だが、守備兵の決死の防戦や皇帝曹叡の援軍がやってきたため、ついに孫権は退却します。これらの功績により、満寵は魏の高位に就き、首都に呼ばれます。満寵が首都に呼ばれた事で、孫権との戦いは終止符が打たれる事になります。
三国志ライター黒田廉の独り言
満寵の前半は政治家としの道を歩みますが、後半は軍人の道を歩むことになります。呉との戦いを数十年続け、一歩も引かずに呉軍を蹴散らし続けた満寵は、呉軍キラーの名にふさわしい戦い司令官でありました。満寵は軍人としても優秀で政治家としての能力にも秀でていたのですが、どちらで活躍したかったのでしょうか。私の私見は政治家であったと思います。国境を守備するプレッシャーに加えて、孫権軍との長年の侵攻に心身ともに疲れてしまい、中央の勤務を望んでいたのではないでしょうか。満寵の気持ちを考える上での私の勝手な考えですが、参考になれば幸いです。
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