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鼎(かなえ)って何?玉璽の前の権力のシンボルを紹介!!

2016年3月5日


 

三国志 まとめ

 

三本脚の独特の形をした祭具である鼎、「鼎の軽重を問う」、「三国鼎立」、

あるいは、「鼎談」など、今でも言葉が残る鼎とは、元々何だったのでしょうか?

そこを調べると、古代の生活が見えてきました。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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鼎はいつ頃から登場したのか?

かなえ

 

鼎が登場したのは、(いん)の時代よりも遥かに前、

中国の竜山(りゅうざん)文化の頃です。

今から、5000年前の事で、その頃にはすでに鼎は存在していました。

後には、祭器になる鼎ですが、最初は調理器具でした。

 

鼎は、底が深く、また、三本脚で安定しているので、下から薪を燃やして

肉の塊のような煮えるまで時間がかかる食材を扱うのに向いていました。

 

鼎は、祭りを行う時に、大勢の氏族を集めて使われた

大型の鼎の中には、重さ800キロを超えるものさえあります。

秦の武(ぶおう)は、鼎を持ちあげようとして脛の骨を折り死にますが、

おそらく、このような馬鹿みたいに重い鼎を持とうとしたのでしょう。

 

さて、どうして、このように大型のサイズが産まれたのかと言うと、

それが権威の象徴という意味もありますが、

何より、特別な生贄を捧げる日には、大勢の血縁者、つまり、

氏族を集めて大食事会をしたからだと考えられます。

 

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宰相(さいしょう)の宰とは、元来肉切り包丁を意味する

陳平

 

さて、その大食事会には、何百人という血縁者が勢ぞろいしました。

鼎で肉を茹でると、この血縁者に文句が出ないように平等に、

肉を分配する必要があります。しかし、他人の肉は大きく見えるというか、

実際には、トラブルが絶えませんでした。

 

そこで、いつからか、氏族の主は、鼎から茹でた肉を切り分けるのが

上手な人間を雇い、彼に肉の分配を任せるようになります。

それを宰(さい)といいました。

 

陳平

 

漢の高祖、劉邦(りゅうほう)に仕えた策士、陳平(ちんぺい)も、

この肉の配分が上手い「宰」でした。

 

宰は、家という文字と刃物の象形文字が造られています。

そう、この宰は、やがて、氏族だけではなく、天下の政治の采配を任される

最高責任者を意味する、宰相へと意味が変化していくのです。

 

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鼎は、時代が進むと権力の象徴に変化する

劉備 呂布 肉取り合い

 

元々は、調理器具の一つであった鼎ですが、神に捧げる生贄を煮込む祭事と

切っても切れない関係である事から、次第に神聖視されていき、

権力のアイテムに変化していきます。

 

伝説の聖王の禹(う)が、夏王朝を建国した時、中国は九の州に別れていたので、

禹は各州から、青銅を集めて、九つの鼎を造りだします。

こうして、鼎は権力者が持つ必須アイテムになったのです。

 

鼎は、身分によって、持てる数が違う

皇帝いっぱい

 

権力の象徴になった、鼎は、無制限に持つ事が許されなくなります。

最高権力者である天子は九鼎、その下の諸侯は、七鼎、大夫は五鼎、

そして、士は三鼎というように身分によって、鼎の数が制限されたのです。

元々は調理器具だったものが、皆が欲しがる権力の象徴になるとは、

面白い事です。

 

 

楚の荘王は鼎の軽重を問う

 

 

九鼎は、夏から殷、そして、周に引き継がれましたが、

紀元前7世紀の春秋時代、楚の荘(そう)王という人物が勢力を伸ばし、

中原の諸国を従えて覇者になりました。

 

荘王の率いた楚は、長江の南に位置し、中華とは違う異民族の国で、

周の王室をあまり、尊敬していませんでした。

 

そこで、荘王は、周の定王に鼎の重さを質問し、

力ずくで担いで、楚に持ち帰ろうという暴挙に出ます。

 

しかし、王孫満(おうそんまん)という人物が、そんな荘王を叱責します。

 

「周が天下の主なのは、九鼎があるからでなく、徳があるからです。

そこを、力ずくで持ち帰ろうとは、なんと不遜なモノ言いでしょうや」

 

荘王は、返す言葉がなくなり、黙って鼎を諦めました。

 

この事から、立場が下の人間が上の人間を侮り、

その地位に取って代わろうとする様子を鼎の軽重を問う

というようになります。

周の鼎は、秦の昭襄王に奪われるがハプニングが・・

陳平

 

紀元前255年、秦の昭襄(しょうじょう)王は、

洛陽を陥落させ細々と続いていた西周を滅ぼします。

この時に、昭王は、伝来の九鼎を手に入れました。

早速、秦の都である咸陽に運び込もうとしますが、途中、

船で鼎を輸送する途中に、船が転覆して鼎は水の底に沈んだ

という伝説があります。

 

真偽は不明ですが、武力で中華を統一しようとする昭王を

天は認めなかったという意味の話かも知れません。

 

始皇帝は、鼎を権力の象徴から外し、玉璽(ぎょくじ)を造る

キングダム 始皇帝

 

やがて、昭襄王のひ孫にあたる秦王政が紀元前221年に、

500年に渡る乱世を終わらせて中華を統一し、始皇帝と名乗ります。

しかし、始皇帝は、もう鼎を権力の象徴としようとは、

しませんでした。

 

新しき皇帝には、あたらしい権力のシンボルが必要だと

考えた始皇帝は、玉を削って、玉璽を造り出し、

これを皇帝権力のシンボルにしました。

 

こうして、鼎が権力者の象徴だった時代は終わりを告げるのです。

 

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鉄が普及し、磁器が誕生すると鼎の時代も終わる

 

 

鼎は、秦の時代以降も、漢の時代まで造られ続けますが、

やがて、青銅に代わって鉄が登場すると、生産数が減ります。

そして、魏晋南北朝の時代に入り、磁器が発明されると、

重くて、馬鹿デカイ鼎は、調理器具としても不必要になり、

歴史から、ひっそりと姿を消してゆくのです。

 

春秋戦国ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

ただの調理器具だった鼎は、権力の象徴になると神聖視され、

精緻な装飾が施されるようになり、美術品としての価値もあります。

特に殷の時代の鼎は、精巧で人気が高いそうですよ。

 

本日も悠久の春秋戦国時代に乾杯!!

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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