魏の名臣・荀彧(じゅんいく)はなぜ亡くなったの?【謎の死を遂げた名臣】

2016年5月12日

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コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

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おとぼけ(田畑 雄貴)

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荀彧 はじめての三国志

 

曹操(そうそう)の創業期から支え続け、名臣といっても過言ではない荀彧(じゅんいく)

彼が最初に曹操の元を訪れた時、曹操は彼を見て「わが子房(しぼう)」が来たと

言って大いに喜んでいました。

 

張良と劉邦

 

ついでに子房とは前漢の名軍師である張良(ちょうりょう)の事です。

こうして荀彧は曹操に仕え、軍事面や内政面、

人材に対してなど実に様々なことに対してアドバイスを行います。

しかし赤壁の戦いから4年後、曹操が孫権討伐に赴いた際、

彼は突如亡くなってしまいます。

 

荀彧と曹操の仲はどうだったのか

曹操と荀彧

 

荀彧の死因を述べる前にまず、彼と曹操はどのような関係であったのかを

述べてみようと思います。

 

わが子房と称賛

荀彧 袁紹

 

荀彧は最初、袁紹(えんしょう)に仕えておりましたが、

彼に見切りを付け、曹操に仕えます。

曹操は荀彧が来て士官を望んだとき大いに喜び、

彼に対して「わが子房が来た」と称賛します。

その後、長安から逃れてきた献帝(けんてい)を保護するように進言。

この進言により、曹操は中華の群雄から一歩抜きんでることになります。

 

曹操 手紙

 

また官渡の戦い(かんとのたたかい)では、

袁紹軍の大軍を見て弱気になった曹操は官渡城を捨て、許に退却しようとします。

 

荀彧 曹操

 

荀彧はこの計画を知り、曹操に対して激励し、戦を続けるように伝えます。

この激励により気持ちに余裕を取り戻した曹操は、

袁紹軍と戦い続けることを決意します。

 

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優秀な人材を多く推挙

郭嘉

 

さらに荀彧は多くの優秀な人材を曹操に推挙しております。

彼が推挙した人材は、曹操軍の軍師として、いくつもの戦に適切な

アドバイスを行った郭嘉(かくか)や甥の荀攸(じゅんゆう)

関中の豪族たちをしっかりと治め、内政に尽力した鐘繇(しょうよう)など

を曹操に仕えさせます。

彼らは曹操を支え、魏の建国に大いに尽力します。

 

曹操 ヨイショ

 

曹操は荀彧に「君が推挙した人材は素晴らしい。」と褒めます。

こうして曹操と荀彧の関係は良好でありました。

 

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荊州討伐の策を献策

現実主義曹操

 

曹操は河北の戦いに勝利した後、

荀彧に「今、河北を統一し、我が国の領土は天下の半分を手に入れることになった。

私は今荊州を領土に加えようと思うのだが、あまり時間をかけたくない。

何かいい策はないだろうか」と相談を持ち掛けます。

すると彼は「我が領土で荊州の国境に近い、宛(えん)に大軍を進めれば、

荊州の君主は戦を知らず臆病者であるため、降伏するに違いありません。」と

進言。

曹操は荀彧の進言を採用し、宛に大軍を進駐させると、

荊州の君主である劉琮(りゅうそう)は国を挙げて降伏します。

曹操はこうして荊州を有することになり、天下の半分以上が領土となります。

 

赤壁での大敗北

劉備と孫権同盟

 

曹操は順調に天下統一に近づいていきます。

だが彼の天下統一事業に孫権(そんけん)劉備(りゅうび)が連合して立ちはだかります。

曹操軍は15万に対し、孫と劉の連合軍は総勢4・5万という少なさです。

しかし孫・劉の連合軍は、曹操軍に真正面から攻めず、

偽降(ぎこう)と火計を用いて攻めます。

 

曹操 死

 

曹操は孫権軍の火計を受け、大敗北。

この敗北により曹操軍は荊州の半分を失い、兵を多く失うことになり、

天下統一が遠ざかることになります。

 

魏公就任に反対

曹操議員

 

赤壁の戦いから3年後、曹操家臣の文官達は天下の半分以上平定した

曹操の功績を天下に顕かにするため、彼を魏公に進めようと画策。

荀彧は曹操に「群臣達が殿を魏公の位に進めようと考えて色々な画策をしております。

殿は漢の世を正すため、漢の皇帝を推戴して天下平定に邁進していたはず。

今ここで魏公の位に進めば、天下の人達は殿が漢の皇帝から皇位を奪い、

皇帝になろうと考えていると思うでしょう。

それはなぜか、公位の次の爵位は王です。

そして王の次の爵位は皇帝です。

もし公の位に着いたらすぐに群臣は殿を王の位に進ませ、皇帝の位に就かせようと

動き出すでしょう。

殿は漢の忠臣として立ち上がった当初の目的を忘れてはなりません。」と

反対します。

曹操は荀彧の反対意見を一度は受け入れます。

 

軍を慰問する

荀彧

 

曹操は荀彧に魏公就任を反対された年、孫権討伐に出陣。

曹操は荀彧に自分の出身地である譙(しょう)に駐屯している軍を慰問した後、

合流するよう命令します。

荀彧は曹操の命令を受け譙へ向かいます。

彼は譙に着くと曹操の息子である曹丕(そうひ)と楽しく色々なことを語り合い、

楽しいひと時を過ごします。

 

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寿春で亡くなる

表情 曹操04

 

荀彧は譙を後にすると曹操の軍勢の後を追い、濡須(じゅす)へ向かいます。

しかし濡須へ向かう途中でいきなり病にかかり、

寿春(じゅしゅん)で養生します。

荀彧は寿春で養生に努めていたのですが、病は快方に向かわず、亡くなります。

なぜ荀彧は亡くなったのか【三国志演義版】

 

荀彧

 

荀彧は三国志演義によると、彼が寿春に着いたとき、

曹操から綺麗な容器が届けられ、容器を見てみると中は空っぽでした。

彼は中身が何にも入っていない意味を考えます。

するとある考えに思いつきます。

曹操は空箱を送ってくることで「お前にもう用はない」と

伝えてきているのではないのか。

荀彧は曹操の無言の伝言を受け取り、毒を飲み自殺します。

ですがこの話は三国志演義に乗っているエピソードで、

荀彧の死後に創作された可能性が高く、信憑性に欠けます。

では正史三国志を書いた陳寿は荀彧の死を記載しているのでしょうか。

 

正史三国志による荀彧の死の原因

 

 

荀彧の死因は曹操が彼に空箱を送ったことが原因であると、

三国志演義は伝えております。

だが前述したとおり、三国志演義は創作物であるため、信憑性に欠けます。

では正史三国志において荀彧の死はどのように描いているのでしょうか。

正史三国志によると荀彧の死因は「憂いをもって自殺した」と記されております。

荀彧の憂いとは一体何であったのかが全く記載されておりません。

 

荀彧の憂いを考える

劉備読書

 

荀彧の憂いとはいったい何だったのでしょうか。

彼は正史三国志や後漢書(ごかんしょ)など色々な書物に描かれております。

これらの書物を調べてみると彼の立ち位置が微妙に違ってきます。

 

漢の忠臣として亡くなった荀彧

孔子 儒教

 

荀彧の爺さまは荀子(じゅんし)の子孫で、漢の名臣として名を連ねます。

また父親や叔父たちも「八龍」と称され、漢に仕えております。

彼はそんな優秀な父親から薫陶を受け、漢の国教である儒教を学びます。

儒教とは春秋時代に生まれた孔子(こうし)を祖とした思考です。

この儒教はざっくりと説明すると武力で天下を統一するのではなく、

人の徳義をもって天下を治めるべきであるという教えです。

荀彧も漢の時代の国教となっている儒教を学んだ後曹操に仕えます。

曹操に仕えた荀彧は、

彼と共に徳義をもって漢の天下を治めようと尽力した事が評価され、

漢の忠臣として後漢書に記されています。

しかし果たして荀彧は死ぬまで漢の忠臣であったのでしょうか。

 

本当に漢の忠臣だったのか

荀彧 曹操

 

荀彧は曹操に仕えると様々なアドバイスを行います。

政治・軍事など彼がアドバイスした内容は多岐にわたります。

また荀彧は漢の朝廷を擁立した時も曹操にアドバイスを行っております。

彼が曹操にアドバイスした時、楚の義帝に起きた出来事を引用しています。

 

楚の義帝に起きた出来事とは

始皇帝 死ぬ

 

秦の始皇帝が亡くなり、各地で反乱が勃発。

最終的に漢の劉邦(りゅうほう)と楚の項羽(こうう)が残り、天下の覇権をかけた戦いを行います。

 

張良㈭ 広武山決戦編03 劉邦と項羽

 

劉邦がまだ楚の一将軍であった時、楚には皇帝がおりました。

その皇帝の名を義帝と言います。

 

項羽

 

義帝は楚の諸将を取りまとめる存在でしたが、

項羽が秦の本拠地である関中を手に入れた後、

義帝に存在している価値が無いとし、殺害します。

 

義帝と同じように献帝を使えばよい

曹操

 

曹操は献帝を擁する前は、強力な群雄が彼の四囲に存在しており、

北に袁紹、南に劉表袁術、東に呂布

西には関中の豪族や李傕、郭汜などの董卓の残党軍がおりました。

荀彧はこうした曹操の状況を憂慮しておりました。

そんな中、献帝が長安を脱出し洛陽に向かっていると情報が入ります。

すると荀彧はすかさず曹操に「今は群雄が割拠しており

いまだ漢の皇帝を担ぐことに意義があります。

殿の四囲は敵に囲まれており、厳しい状況に置かれております。

この状況を打開するには漢の朝廷を抱き込むことが肝要です。

漢の朝廷を抱き込めば、各地の群雄達は下手に殿に手を出してくることは

無くなるでしょう。

もし献帝が騒ぎ始めたら楚の義帝のようにしてしまえばよいではないですか」と

アドバイスをしております。

漢の忠臣として描かれている荀彧がこのような発言をしている限り、

漢の忠臣であったか疑問で仕方ありません。

何が原因で亡くなったのか

 

表情 曹操03

 

後漢書に記されているような漢の忠臣とは思えないような発言をしておりました。

あの発言から考えると荀彧は、漢の忠臣ではなかったように思えます。

ここでは荀彧が漢の忠臣ではなかったと仮定して話を進めます。

それでは漢の忠臣でもない彼が正史三国志に記載されている死因である

「憂いをもって自殺した」と記したのでしょうか。

ほかの原因を考えてみたいと思います。

 

漢の復興を目指した

荀彧

 

さて彼の死因の第二候補として挙げられるのは、

漢の復興に失敗した事が原因であると思います。

は?さっき漢の忠臣ではないって言ったばかりじゃない。

この作者アホじゃない。

このように思われた方もいると思います。

荀彧は漢の忠臣ではないと思います。

しかし曹操を使って漢を復興の目指した可能性があります。

その理由は先ほど義帝の話をしたことです。

 

義帝の話を引用したのか?

項羽 劉邦

 

荀彧はなぜ漢の朝廷を擁立するとき曹操にアドバイスを行いますが、

この時項羽の叔父に担がれて帝を称した義帝の話を引用します。

なぜ彼はこの話を引用して曹操にアドバイスしたのでしょうか。

別に義帝の話でなくとも、王を助けた名臣は春秋戦国時代に腐るほどあります。

ですが荀彧にはどうしてもこの話でなくてはいけませんでした。

 

皇帝の権威を利用して、曹操に天下統一をさせる

曹操

 

荀彧は楚の義帝の話を引用し曹操に献帝を擁立してもらうことで、

皇帝が持つ権威を利用し曹操自ら軍事や政治を行う事で、

各地の群雄達を討滅もしくは屈服させ実質的な天下統一をさせる事が、

目標であったのではないでしょうか。

このように解釈すれば荀彧が楚の義帝の話を引用した意味に納得がいきます。

そのために荀彧は自分の人脈をフル活用し、曹操に優秀な人材を推挙。

さらに軍事・政治において様々な進言を行います。

ですが曹操が赤壁の戦いで大敗北。

この戦いで敗れた事が原因で曹操は荀彧とともに目指してきた

目標の転換を行います。

 

どのように目標転換したのか

曹操 曹休 曹丕

 

曹操はどのように目標転換したのでしょうか。

それは自分が漢の丞相の位を捨て、公の位に就くことです。

そして王の位に上った後、息子達に皇帝になってもらうことです。

 

なぜ公の位に就こうとしたの

曹操 真田丸

 

なぜ曹操は公の位に就こうと考えたのでしょうか。

その理由は2つあります。

一つは家臣からの懇願です。

曹操の家臣である董昭(とうしょう)をはじめとした家臣団が、

彼に公の位に就任するように懇願したことが理由です。

2つ目の理由は赤壁の戦いに敗れた事で天下統一事業が遅れた事が原因です。

赤壁で曹操が勝って孫権を降して、江東を平定。

その後、東の劉璋や関中の豪族達などは曹操自ら討伐しなくても、

脅迫して降伏させるか、家臣に任せて討伐すれば

天下を統一することができ、荀彧と曹操が考えていた理想が果たせます。

しかし赤壁に敗れた事で天下統一事業が頓挫。

曹操は自らの年齢を考えた時、

生きている間に天下統一は果たせないと考えたのではないでしょうか。

そのため実質的な天下統一をあきらめ、形の上での天下統一を目指すことにします。

 

形の上での天下統一って

曹操

 

曹操が考えた形の上での天下統一とはいったい何なのでしょう。

それは皇帝になることです。

当時の皇帝とはその土地をすべて治める者を指します。

ですが曹操は自らが皇帝になることを考えておりませんでした。

自らは周の文王(ぶんおう)を手本とし、自らは生涯漢を奪おうと考えておりませんでした。

そのため、彼は自らが公の位、次いで王へ位を進め、

自らが亡くなった後、息子が皇帝に就くことで、

名分の上で中華を統治することになります。

 

曹操が裏切ったと考え、公就任に反対

暗殺計画自慢の董承08 曹操

 

荀彧は曹操が公就任の事で相談しに来た時、実質的な天下統一を諦めたと考えます。

そのため荀彧は曹操の公就任に反対します。

荀彧の反対により、今まで親密な関係であった君臣にヒビが入ります。

そして曹操は君臣からの懇願を受け、公就任を決意。

曹操は公就任の決意を荀彧に伝えたことが原因で、

憂いを残したまま自殺したのではないでしょうか。

 

三国志ライター黒田廉の独り言

黒田廉

 

三国志最大の謎といっても過言ではない荀彧の自殺。

陳寿が書いた正史三国志によると、荀彧の死後「曹操は結局魏公になった」と

記載しております。

この「結局」の部分が何かを含んでいる気がしてなりませんが、

もし私の推測した内容が自殺の原因であれば、辻褄が合うように思えます。

「今回の三国志のお話はこれでおしまいにゃ。

次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。

それじゃまたにゃ~。」

 

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この記事を書いた人:黒田廉(くろだれん)

 

黒田廉

■自己紹介:

横山三国志を読んだことがきっかけで三国志が好きになりました。
その後の日本史・中国史を学びました。
またいろいろな歴史小説を読んでおります。現在はまっている歴史小説は宮城谷昌光氏の劉邦です。

■歴史人物:

張遼孟嘗君、張作霖など

■何か一言:

今年も頑張ってはじさん盛り上げていくにゃー!!

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