多くの場合、社会の破壊と創造は別の人間の手によって行われます。
この両極端のアクションはメビウスの輪のように、どこかで繋がってはいますが、
社会という長い寿命と多くの人間によって動く組織においては、
一人の人間にその両方を背負わせるのは無理が生じるからです。
破壊者、董卓(とうたく)、先駆者、袁術(えんじゅつ)を経て、
動乱の中国は新しい社会モデルを持つ一人の英傑に辿りつきます。
第三回、まだ漢王朝で消耗しているの?は覇王曹操の業績を追います。
前回記事:まだ漢王朝で消耗してるの?第1話:改革なき破壊者 董卓
前回記事:まだ漢王朝で消耗してるの?第2話:早すぎた改革者 袁術
この記事の目次
不良少年の中に潜む底知れない才能
曹操孟徳(そうそう・もうとく)は西暦155年、豫州沛国譙県で産まれます。
出生には謎が多く、兄弟の名前が多くは伝わらないなど疑問点もあります。
曹嵩(そうすう)の妾の子であると言う説もあり、それも原因になってか、
若い頃は素行が改まらず、手のつけられない不良少年でしたが、一方で
大尉喬玄(きょうげん)には、早くから大器として才能を認められており、
月旦で知られる人物鑑定家の許劭(きょしょう)には
「治世の能臣、乱世の奸雄」と言われました。
漢王朝を思いながら絶望した青年時代
そんな曹操は、20歳で、北部都尉という洛陽の北門を守るポストに就きます。
そこでは、夜間の門の往来が盗賊防止の為に禁止されていましたが、
長い歳月の間に、門は崩れてしまい制度もすっかり形骸化していました。
それを知った曹操は、北門の4つの入り口を修理させ、門の左右に五色棒を
十本ずつ掛けさせ、法を破る者は誰でも例外なく棒で撃ち殺しました。
その中には仲常侍として権勢を奮う宦官、蹇碩(けんせき)の叔父もいましたが、
曹操は容赦なく撃ち殺したので、皆、震えあがり夜中に門を通る人はいなくなります。
蹇碩は怒りますが、非は叔父にある上に、曹操の祖父は大宦官の
曹騰(そうとう)であったので下手な手が出せず、目ざわりな曹操を
栄転と称して地方に飛ばすのが精一杯でした。
曹操が、このような過激な行動をしたのは、不正と汚職が罷り通る世の中を
是正したい正義感からでしたが、度々、上奏し、汚職を摘発したにも関わらず
腐敗した権力は、まるで良くならず曹操の手に余りました。
曹操は、抜本的な改革以外に漢はどうにもならんと感じ、諫言を止めます。
黄巾賊討伐では軍人としての才能を発揮
西暦184年、黄巾の乱が勃発すると、曹操は騎都尉に任じられ頴川方面の
黄巾賊を撃退、その手柄で斉南国の相に抜擢されます。
ここでは、宦官や中央の悪徳政治家と結託した長史の賄賂が横行しており、
また邪教が蔓延っていました、曹操は上奏して役人を8割クビにし
さらに邪教の廟を悉く叩き壊しました。
邪教のお布施に苦しめられた庶民は曹操に感謝し悪人は済南国から去りました。
この手柄で曹操は東郡の大守に任じられますが赴任せず、故郷に引き籠り
読書と狩りの毎日を送ります。
反董卓連合軍に加わるがやる気のない諸侯に幻滅
やがて、外戚の何進(かしん)と仲常侍の間で、霊帝(れいてい)死後の皇帝を
誰にするかで争いが勃発、曹操はいずれにも加担しませんでしたが、その間に何進が
宦官に殺され、それを怒った袁紹(えんしょう)や袁術(えんじゅつ)が兵を率いて
後宮に乱入して宦官を皆殺しにします。
混乱した洛陽に少帝と陳留王を保護した董卓が入城し、まもなく恐怖政治を敷きました。
董卓は曹操の才能を買い、仲間に引き込もうとしますが、董卓に先が無い事を
感じ取った曹操は洛陽を脱出、しばらく故郷に潜伏していましたが、
袁紹を盟主に反董卓連合軍が結成されると、陳留の孝廉衛滋(えいじ)が家財を売り払い、
曹操にお金を用立てたので、それにより五千の兵を得た曹操は連合軍に参加します。
ところが、反董卓連合軍は、孫堅(そんけん)や王匡(おうきょう)
鮑信(ほうしん)と言ったような諸侯以外は、
董卓と争う事に消極的でひたすら宴会と軍議に明け暮れます。
曹操は諸侯の無気力を叱責し綿密な作戦プランを練って提示しますが、
弱小諸侯でしかない曹操は「お前誰?」扱いで誰も言う事を聴きません。
それならばと曹操は自ら打って出ますが董卓軍の徐栄(じょえい)に惨敗、、
その間に董卓は洛陽を焼き払い、西の長安に引き籠っていきました。
漢王朝はこれにより、洛陽より東の群雄に影響力が届かなくなり、
権威は急速に失墜、同時に漢の制約から開放された群雄達は、
それぞれの野望のままに国盗り合戦を演じる事になります。
自分の勢力が無い曹操は、袁紹の上奏により東郡大守に任命され
東武陽に政庁を置いて駐屯する事になります。
事実上、袁紹の子分の身分ですが、曹操は、この頃から、
漢王朝を再興するのではなく、自分が世の中を変えると決意します。
兗州を手に入れ、屯田制を採用する
西暦192年、根拠地がなく袁紹の部下のままだった曹操に転機が訪れます。
兗州刺史の劉岱(りゅうたい)が青州黄巾賊に戦いを仕掛け戦死したのです。
劉岱の部下で、曹操と親しかった鮑信や万潜(まんせん)は兗州牧には
曹操が相応しいとしきりに運動して、曹操はついに一州を手に入れます。
そして、圧倒的多数の青州兵をゲリラ戦術で撃破していき、ついには降伏させ
30万の軍勢と100万の避難民を手に入れました。
この青州兵は、曹操軍の精鋭として曹操の覇業を大いに助ける事になります。
しかし、兗州は黄巾の乱以来の戦乱で荒れ果てていました。
曹操が陶謙(とうけん)の支配地、徐州に攻め込んだのは、
父、曹嵩の仇討ちもありますが、兗州があまりに貧しく、
物資が不足している事も問題にありました。
西暦194年には、曹操の軍師、陳宮(ちんきゅう)が呂布(りょふ)を
兗州に引き込んで曹操に叛き、1年半にわたる兗州攻防戦が起こりますが、
蝗害(こうがい)と旱魃(かんばつ)で食糧が取れず、やむを得ず呂布も曹操も、
軍を退いて停戦するという異常事態になりました。
これも、そもそも、農民がその日暮らしで蓄えなどまるでない事の証拠であり、
西暦196年、献帝を許に迎えた曹操は、棗祇(そうし)や韓浩(かんこう)の
意見を採用して屯田の制を興す事になります。
曹操が採用した屯田が魏を次の王朝の母体にした!
屯田は曹操のオリジナルではなく、後漢の光武帝も採用していましたが、
光武帝のそれは、あくまで辺境の兵士に農業を兼ねさせて自給自足を狙う政策でしたが、
曹操のそれは、中原の地で、流民を半強制的に定住させて行うという点が違います。
曹操は屯田兵を兵戸と民戸に分け、牛や種籾を貸し出す一方で、収穫の50%を
取り上げるという厳しい措置を取りました。
特に兵戸は納税ばかりではなく兵役の義務もあったので、当初は逃亡する者が
跡を絶たなかったようです。
一方で曹操は、自作農や大地主を優遇して、こちらは税率1%という減税を実施します。
これは、富豪や自作農が他所へ逃げない為の措置でしたが、そのしわ寄せは、
屯田に従事する人々が払った事になるのです。
ただ、当時、豪族に囲われて部曲と呼ばれた私有民は、屯田戸と同様に、
50%の税率を掛けられていたので、曹操が特別アコギだったとは言えません。
曹操の屯田が革新的だったのは、当時の群雄が土地開発には興味を持たず、
奪うばかり、或いは、元々の生産力に依存していたのに対して、
食糧の増産を可能にした事です。
曹操の領地は兗州、青州、幷州と黄巾の害の著しい所で生産力は激減していましたが
屯田はそれを再生させ、ついには生産性で他の群雄を上回ります。
曹操は少ないパイを奪い合うのではなく、パイの分母を拡大してしまったわけで
これが戦争の長期継続と大動員を可能にし、魏を三国一の強国へと押し上げました。
税金は特産品で支払っても良い、税制の改革
曹操の時代、ハイパーインフレ太師、董卓の五銖銭の改悪により税金を
金銭で納める事が不可能になっていました。
そこで、曹操は、それまであった祖(収穫物を納める)に加えて調という制度を敷き
現地の特産品である、絹や綿で税金を支払っても良い事にしています。
こうして、税金の支払い方法を柔軟にした事で、農民の負担は減り、
漢代のように銭がないから逃亡するという事がなくなりました。
やがて、祖・調に加えて、労働力で税金を払う庸を加えた中国の税制は、
奈良時代の日本に伝わって、歴史教科書でも習う、祖・庸・調になります。
その中の調は、曹操が生み出したものだったのです。
赤壁の敗戦が魏王朝を盤石にした
西暦200年、官渡の戦いで北方四州を支配した袁紹を曹操が撃破。
さらに、袁紹の遺児達と烏桓(うかん)を大遠征の末に討伐した曹操は、
天下統一の総仕上げとして、今度は呉に攻め込みますが、
劉備(りゅうび)と同盟を結んだ呉の孫権(そんけん)と赤壁で戦って大敗します。
これにより、曹操の時代の勢力拡大は終わりを迎えますが、
自分一代での統一を諦めた曹操のエネルギーは内政を固めて国力を充実させ、
後の魏王朝の基盤作りへと向けられていきます。
赤壁から2年後に曹操は求賢令を出して、韓信(かんしん)や陳平(ちんぺい)などを
引き合いに出しそれまでの儒教的な道徳ではなく才能重視の人材登用を開始すると同時に、
四書五経の暗唱が主だった採用試験を漢詩を上手く造れるかという
ポイントに変更するなど、後漢の時代に勢力を振った名士層から、
徐々に権力を剥ぎ取っていこうとします。
曹操は、それと前後して、後漢時代の三公を廃して、丞相と御史大夫による
政治決定権の集中を図ると同時に、軍権を地方から中央に集めていきます。
分散してしまった後漢の権力を再統一し、強力な皇帝専制の国家を
目指していた様子が見てとれます。
建安サロンを造り、新しい文学の潮流を産み出す
曹操は自身が詩人であっただけでなく、それまでの漢詩を改革しました。
曹操は、当時、音楽の節に合わせて歌っていた漢詩を音楽から切り離します。
こうする事で、静かな環境でも漢詩を造る事が可能になりました。
第二には、漢詩には必ず署名する事を義務付けました。
それまで漢詩は詠み人知らずばかりでしたが、曹操の時代からはクレジットが入り
誰が詠んだ漢詩かハッキリするようになります。
第三には、より深い心の有り様を漢詩に投影して文学としての深みを加えました。
こうして、それまで庶民から王侯貴族までが詠んだ漢詩を知識人のものとします。
曹操の改革により、民謡・俗謡の一部だった漢詩は一般庶民から切り離され
知識人の教養になり、その後の歴史でも、このスタイルが貫かれます。
曹操は、建安サロンと呼ばれる文壇を創始して、王粲(おうさん)や孔融(こうゆう)
陳琳(ちんりん)のような天才を集めて文学を議論させ、同時に人材登用試験にも、
漢詩の才能を試す科目を入れ、儒教に代わる新しい文学と芸術を産み出したのです。
涼州と漢中を平定した後に大往生を遂げる
呉の討伐は見合わせた曹操ですが、関中の軍閥の解消と、五斗米道を開いた
新興の宗教王国である漢中の張魯(ちょうろ)の討伐には着手します。
西暦212年、関中の軍閥、馬超(ばちょう)と韓遂(かんすい)の勢力を駆逐し、
漢中の張魯を降した曹操ですが、中央に帰還すると、西暦219年、
益州を制した劉備(りゅうび)が漢中を陥れます。
曹操は、再度、奪還に向かいますが、険阻な土地に阻まれて退却しました。
こうして、翌年正月、曹操は中華統一の夢を次世代に引き継ぎ、
六十五年の波乱の生涯の幕を閉じたのです。
曹操は、群雄として立った当初から、意識的に次の国家モデルを模索していて、
土地の再生、税制の柔軟化、人材登用の変更、中央集権にかなりの実績を挙げます。
かくして、その後を継いだ曹丕は後漢を滅ぼし曹魏を建国する事が出来たのです。
まだ漢王朝で消耗しているの? 3 ポイント
・曹操が残した事績とは?
1 屯田制を敷いて、荒れ果てた国土を立て直し魏王朝の基盤を造った。
2 納税に特産品の綿や絹による支払いを認め支払いを多様にした。
3 求賢令を出して、儒教道徳に縛られない能力主義の人材登用をした
4 建安文学と呼ばれる自由な空気の芸術サロンを産み出した
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次回記事:まだ漢王朝で消耗してるの?第4話:九品官人法 陳羣(ちんぐん)
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