蜀(221年~263年)の建興6年(228年)の諸葛亮は魏(220年~265年)を討伐するために出兵します。諸葛亮の第1次北伐です。
この時、先鋒として配置された馬謖は副将の王平の注意を無視して山頂に布陣。その結果、魏の張郃に敗北しました。さて、馬謖に注意した王平とはどんな人でしょうか?
今回は馬謖を注意した王平について解説します。
この記事の目次
実は異民族
王平は巴西郡宕渠県の出身です。理由は分かりませんが、幼少期は母の何氏に養われており何平と名乗っていました。後に父の名字である「王」に戻したようです。
文字はわずか10字程度しか知らず文書は人に書いてもらっていました。これは特に珍しい話ではありません。中国の武人は文字を知らないのが多く、関羽や南宋(1127年~1279年)の岳飛のように識字能力があるのは稀な例でした。
横山光輝氏の『三国志』のイメージのために、ピンと来ない読者の皆様もいると思うかもしれませんが王平は異民族または、異民族と漢人のハーフです。
王平の住んでいる巴西郡宕渠県は、「板楯蛮」という異民族が多く住んでいる地域でした。ただし、彼の出身は諸葛亮の第1次北伐の時に重要な意味を果たします。
曹操に攻め込まれて降伏
建安20年(215年)に曹操は長年に渡り漢中に君臨している宗教団体「五斗米道」の張魯を討伐。これまで張魯に従っていた板楯蛮は次々と曹操に降伏します。この時に王平も曹操に降伏したのでしょう。
王平は仲間と一緒に略陽に移住して曹操に仕えました。略陽は現在の甘粛省天水市から陝西省漢中市にかけての土地です。おそらく、曹操はそこを異民族の強制移住地にしており、有事の時は兵として出陣させる予定にしていたのでしょう。
余談ですが正史『三国志』では「略陽」ではなく「洛陽」になっていますがこれは著者である陳寿の誤植。『晋書』・『華陽国志』は「略陽」で統一されています。洛陽だと距離がかなりありますからね・・・・・・
劉備に攻め込まれて降伏
王平に休む暇はありません。建安23年(218年)から劉備は張飛・馬超を漢中に進軍させました。張飛たちは曹洪が撃退するも、建安24年(219年)には定軍山で夏侯淵が黄忠に斬られます。
戦線の維持が難しいと判断した曹操は撤退を決意。漢中を放棄しました。この時従軍していた王平は劉備に降伏します。『三国志演義』では徐晃とケンカになったのが原因で降伏したことになっていますが、これは徐晃を悪者にするためのフィクションです。
王平配属の理由
降伏後の約10年間、王平は何をしていたのか記録が残っていません。夷陵の戦いにも南蛮戦にも従軍しなかったようです。地方武官として勤務していたと推測されます。
王平が再登場するのは蜀の建興6年(228年)の諸葛亮の第1次北伐からです。先鋒として派遣されたのは諸葛亮の愛弟子である馬謖。
王平は馬謖の副将として配属されます。ちなみに、この配属には意味があることが近年の研究で明らかにされています。王平は略陽に居住している板楯蛮の説得のために配属されたのでした。ちなみに正史『三国志』の著者である陳寿の父も王平と一緒に出陣しています。陳寿の一族は「巴西陳氏」という名門であり説得工作のために申し分ない家柄です。
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