呉に貢献した呂蒙の死、孫権の過剰な反応とは?

2021年5月19日


 

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敗れる関羽雲長

 

呉の名将呂蒙(りょもう)の最大の貢献と言えば関羽(かんう)を討ったことでしょうか。

 

三国志演義_書類

 

そのせいで「三国志演義(さんごくしえんぎ)」などの創作物では悪役を任されることが多いのも呂蒙です。

 

穴から呂蒙を覗く孫権

 

そんな呂蒙が亡くなったとき、主君である孫権(そんけん)はどのような反応をしたのでしょうか?

 

自分の人形を操る呂蒙

 

また、「三国志演義」や「人形劇三国志(にんぎょうげきさんごくし)」での壮絶な死に際も特徴的です。今回の記事ではそんな呂蒙の人生と死に際について探っていきます。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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呂蒙とは?

貧乏だった若き呂蒙

 

呂蒙は貧しい家に生まれ、孫策軍の武将である姉の夫(鄧当(とうとう))の元に身を寄せていました。そんな時、鄧当は孫策軍に異民族討伐のために従軍することになります。

 

策略が得意な呂蒙

 

呂蒙はそれに勝手についていき、それをとがめた母に「貧しさから抜け出したいのです、虎穴を探らずしてどうして虎児を得ることが出来ましょうか。」と説得し、孫策軍に従軍しました。

 

呂蒙

 

その後は馬鹿にしてきた人を斬ったり、粗暴な面も見せましたが、孫策に才能をみとめられ、軍で出世していくことになります。

 

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「呉下の阿蒙」と「男子3日会わざれば括目して見よ」

字が読めなくてバカにされる呂蒙

 

呂蒙は武については才能を発揮しましたが、無学でした。その為「呉下(ごか)阿蒙(あもう)」と馬鹿にされていました。これは「呉の町の蒙ちゃん」という意味で、子供扱いされていたのです。

 

孫権から学問を身に着けろと言われる呂蒙

 

そんなある日、呂蒙は孫権から、「学問もした方が良い」と勧められ一念発起し、懸命に勉学に励み、ついにはプロの学者も驚くほどの学識を身に着けたといいます。

 

勉強に励んで文字も読めて賢くなる呂蒙

 

その噂を聞いた呉の同僚「魯粛(ろしゅく)」が呂蒙の元を訪ね、関羽への対策について議論をしました。呂蒙は魯粛に関羽に対するいくつかの策を提案し、魯粛はその策の素晴らしさに舌を巻いたといいます。

 

魯粛

 

そして魯粛は、「もう、呉下の阿蒙とは呼べないな」と呂蒙を絶賛しました。

 

指揮を取る呂蒙

 

呂蒙はそれに対し、「士は3日もすれば全くの別人になるかもしれないから、よく見ておくように」とのべました。これが後の、「男子3日会わざれば括目して見よ」という故事成語の元になりました。

 

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呂蒙、病に倒れる

青龍偃月刀を持つ関羽

 

のちに呂蒙は関羽と対峙することになります。そこで呂蒙は病気になったふりをしたり、関羽の領民や部下を手厚くもてなすなどしました。

 

父・関羽とともに亡くなる関平

 

関羽は油断し、関羽の部下も戦意を喪失しました。そして見事に関羽を捕え、斬ることに成功したのです。孫権はそんな呂蒙を称えましたが、呂蒙は直ぐに病に倒れてしまいます。

 

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英雄の死因

 

孫権、呂蒙を大いに心配する

呂蒙が病気になり心配で仕方ない孫権

 

孫権は病にたおれた呂蒙を自身の宮殿に引き取り、八方手を尽くして看護にあたりました。また、領内に「呂蒙を直すことが出来たものには賞金を出す」とまでお触れを出しました。鍼を刺す時は孫権も一緒に心を痛め、何度も顔色をうかがおうとしました。

 

呂蒙が病気になり心配する孫権

 

しかし、呂蒙に気を遣わせてはならぬと思い、壁に穴をあけて呂蒙を覗いていたといいます。孫権は呂蒙の病気が少しでも良くなると喜び、悪くなると夜も寝つけないほどでした。

 

穴から呂蒙を覗く孫権

 

後に呂蒙の病気が悪化し、孫権は全国の道士に呂蒙の延命を願わせました。しかし、その甲斐なく、呂蒙は42歳の若さで亡くなりました。

 

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呂蒙の死後

呂蒙のお見舞いにかけつける陸遜

 

呂蒙が亡くなると孫権は憔悴したといいます。呂蒙は遺言で、孫権から与えられたものは全て蔵に収めておき、自分の死後は返却するように、葬儀は質素にするように伝えていました。それを聞いて孫権はますます悲しみました。呂蒙の死後は息子の呂覇(りょは)が跡を継ぎましたが早くに亡くなり、呂蒙の兄が跡を継ぎました。

 

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みうらひろし

みうらひろし

歴史が好きになったきっかけはテレビの再放送で観た人形劇の三国志でした。そこから歴史、時代小説にはまり現在に至ります。日本史ももちろん好きですよ。推しの小説家は伊東潤さんと北方謙三さん。 好きな歴史人物: 呂蒙、鄧艾、長宗我部盛親 何か一言: 中国で三国志グッツを買おうとしたら「これは日本人しか買わないよ!」と(日本語で)言われたのが思い出です。

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