三国志において、曹操・曹丕の二代に仕え、魏を支えた功臣である張遼。張遼という武将は、三国志ファンなら知らない者がいないほど有名ですが、張遼の子孫たちがどのような生涯を送ったのかについては、なかなか知られていないのではないでしょうか。
そこで、今回の記事では、張遼の子孫たちの知られざる生涯を探ってみたいと思います。
張遼の息子・張虎
張遼には張虎と呼ばれる息子がいたことが知られています。張遼が222年(黄初3年)に亡くなった後、張虎は張遼の爵位である晋陽侯を受け継いだといわれています。
晋陽は現在の山西省の省都である太原にあたり、春秋時代の大国である晋の主要都市として、古くから繁栄していました。また、後漢の時代には并州の州都が晋陽に置かれており、晋陽侯に封ぜられたということは、并州出身の張遼にとっては「故郷に錦を飾る」ことだったのですね。
話を張虎に戻すと、『正史三国志』における張虎の記述はかなり少なく、父から晋陽侯の地位を継承したほか、後に偏将軍に昇進していることが記されているくらいです。張虎の偏将軍という地位は、将軍の中では下級であり、父の張遼が就任した前将軍に比べればいささか低い地位でした。
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『演義』での張虎:まさかの引き立て役!?
その一方で『三国志演義』では、『正史』に比べて張虎の登場頻度が若干増えています。『演義』の張虎は、楽進の子である楽綝とコンビを組み、司馬懿の部下として諸葛亮率いる蜀の北伐軍を迎え撃つ役回りとして登場します。
しかし、父の張遼とは異なって軍事の才能は全くなく、諸葛亮に連戦連敗を喫してしまうようなやられ役として描かれてしまっています。さらに、ある時には蜀軍に捕らえられ、全裸にされて魏の陣営に戻されて嘲笑を受けるという、なんとも恥ずかしい目に遭ってしまっています。
ただし、『演義』はあくまでも史実を基にした創作であり、蜀を主人公として魏を敵役として描いた物語である以上、魏の将軍である張虎はどうしてもネガティブな描き方をされるところは仕方ないようにも思えます。
しかし、それを考えると、魏の武将である張遼は『演義』ではネガティブな描かれ方をされても仕方ないはずです。
それにもかかわらず、『演義』では合肥の戦いでの張遼の獅子奮迅の活躍や、関羽との漢の友情が登場するなど、敵役のはずの張遼が漢気のある名将として描かれているということは、それだけ張遼という人物の魅力がとびぬけたものであったということなのですね。
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張遼の孫・張統
一方、『演義』では散々な目に遭っている張虎ですが、そんな張虎の息子が張統という人物です。張統に関する記述はさらに少なく、三国時代の後の西晋の時代を生きた人ということは分かっているのですが、西晋でどのような官職についていたかということは不明です。
張統に関する史料記述は、北宋の司馬光がまとめた『資治通鑑』にわずかに見られます。『資治通鑑』(第八十八巻・晋紀十)によれば、張統は楽浪・帯方の二郡に勢力を持っていたが、高句麗王乙弗利(美川王)に攻められて孤軍奮闘した末に、楽浪郡の王遵なる人物の献策を受け入れ、313年(建興元年)に鮮卑族慕容部の慕容廆に帰順します。
楽浪郡を手に入れた慕容廆は張統を太守としたのです。
この記述ははっきり言ってかなり謎が多いと思われます。まず、楽浪・帯方の二郡は現在の朝鮮半島北部です。なぜ魏の偏将軍であった張虎の息子がそのような辺境を拠点とするに至ったのか、その説明が史料を読んでも見当たりません。
また、『資治通鑑』の記述では、「廆為之置樂浪郡、以統(筆者注:張統のこと)為太守」となっているのですが、これは「張統が慕容廆によって太守に任命された」と読むことができますが、これ以前の張統が果たして楽浪郡・帯方郡でどんな役職についていたのか、読み取ることができません。
もちろん、張統が西晋の楽浪・帯方郡太守であり、慕容廆の下で留任されたとも読めますが、楽浪・帯方郡の太守ではなかった張統という人物が初めて慕容廆によって太守に任命されたとも読めます。
このように、張遼の孫にあたる張統の生涯は、なんとも謎に満ちたものとなっています。ですが、史料から何も情報が得られないからこそ、そこに想像力を働かせる余地が生まれ、歴史のロマンがかき立てられるのではないでしょうか?
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三国志ライター Alst49の独り言
いかがだったでしょうか?
今回は張遼の子孫たちについて掘り下げてみました。どうしても偉大な武将である張遼の影でかすんでしまいがちな張虎と張統ですが、彼らの前半生は史料に記述されておらず、不明なことが多いです。
しかし、これは逆に想像力を働かせる余地が多いということでもあり、我々が自由自在に彼らの前半生に思いをはせることができるということでもあります。
筆者は今回、張遼の子孫たちを調べてみて、三国志は、こういった形でも我々を愉しませてくれる素晴らしいコンテンツであることを改めて実感させられました。
皆さんはいかがでしょうか?
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