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頭脳が冴える!三国志を彩る個性豊かな知将3選!

2021年11月29日


 

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孔明 郭嘉 周瑜

 

三国志」の花形はなんといっても武力を使い相手をねじ伏せ、血沸き肉躍る活躍をする武将たちです。その一方で、頭を使い「知力」で活躍した武将たちも沢山いるのです。

 

今回の記事ではそんな「知将」と言われる三国志の登場人物を3人ピックアップしてみましたので、ご覧ください。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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舌快調!馬超も納得!「李恢」その1

 

李恢(りかい)建寧郡(けんねいぐん)兪元出身です。この地は現在の「雲南省昆明市(うなんしょうこんめいし)」周辺で、当時の「益州(えきしゅう)」の南部に位置していました。始めは劉璋(りゅうしょう)に仕えていましたが、劉備(りゅうび)が劉璋を攻撃した際に「劉備が勝つだろう」と予測した李恢は「郡の使者」という名目で劉備に会い、気に入られてそのまま配下になることになりました。

 

劉備軍に降伏する馬超

 

あるとき劉備は「張魯(ちょうろ)」に仕えていた「馬超(ばちょう)」が張魯軍の中で立場が危うくなっていることを知ります。劉備は馬超を味方に引き入れたいと思い、李恢を馬超の元に派遣します。

 

なぜ李恢を派遣したのかは不明ですが、恐らく李恢は話がうまい人物だったのでしょう。李恢は馬超の説得に成功し、馬超は蜀軍で重きをなすようになっていきます。なお、小説「三国志演義」では李恢と馬超は旧知の間柄という事になっていますが、正史「三国志」にはそのような記述はありません。

 

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南方で敵軍を手玉に!「李恢」その2

憤死する麋竺(モブ)

 

221年に益州南部を統括していた人物が死去しました。劉備は「後任は誰がいいかな?」と李恢に尋ねました。

 

李恢は「素晴らしい君主が上にいれば臣下は全力を尽くすものです。前漢の趙充国(ちょうじゅうこく)は自分を推薦したといいます。」と遠回しに後任を望みました。劉備はこの返答を気に入ってしまい、李恢を後任に据えたのです。相変わらずの李恢、舌好調です。

 

劉備の死後、李恢の出身地近くの益州南部の武将たちが反乱を起こします。李恢は諸葛亮(しょかつりょう)と別働隊で従軍しますが、大軍に包囲されてしまいます。そこで李恢は「最近めっきり故郷に帰れずにいたが、ようやく帰ることができた。もう北に帰ろうとは思わない。君たちと心は一緒だ。嘘じゃないぞ。」と嘘をいい、信じた武将たちは包囲を緩めます。

 

李恢はこの隙を突き出撃し攻撃、相手方を敗走させることに成功します。この功績で李恢は将軍に昇進、その後も南部では反乱がおこりますが、そのたびに自ら出撃し反乱を鎮圧しています。馬超の説得や南部戦線での嘘など李恢は舌をうまく使った知将でした。

 

ちなみに李恢は「横山光輝三国志(よこやまみつてるさんごくし)」での

馬超「むむむ」

李恢「なにがむむむだ」

というセリフが一部で有名です。

 

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伝説の企画 朝まで三国志 最強の軍師は誰だ

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七通の手紙で相手を騙す「周魴」

周魴

 

周魴(しゅうほう)は呉郡陽羡県(現在の江蘇省(こうそしょう))出身で、若いころから学識で有名で、のちに呉に仕えることになりました。

 

石亭の戦い 周魴(しゅうほう)

 

228年、孫権(そんけん)は度々呉領を侵す、魏の武将「曹休(そうきゅう)」を呉領におびきよせ、そこで叩く計画を立てました。

 

石亭の戦い 曹休、周魴

 

そこで曹休をおびき寄せるための偽りの内通者を募りました。周魴はその任を受け、7通の手紙で曹休を騙す計画を実行します。

 

石亭の戦いで曹休が反応してドキッとする周魴(しゅうほう)

 

先ず第一の手紙で内通を申し入れます。そして第二の手紙では孫権の自分への迫害を訴え、第3の手紙では呉内の内情を伝え、内通の具体的な手立てについて語ります。この間に孫権は度々周魴の元に使者を派遣し、わざと厳しい言葉を懸けさせます。そして周魴も謝罪をするふりをして、わざと髪を切ることまでしました。

 

石亭の戦い 曹休、周魴、孫権

 

当時は髪を切ることは刑罰としても通用するほどの事でした。これらの事によって曹休は周魴の裏切りを信じるようになります。

 

計画通りになった周魴(しゅうほう)

 

そしてついに曹休は大軍を率いて呉領の奥深くまで侵入。呉軍は当然この侵攻を知っており、曹休の退路を断ったうえで散々に打ち破ります。髪を落としてまで相手を騙した周魴は孫権に称えられ、爵位を受けることになったのでした。この7通の手紙は正史「三国志」に丸々収録されており、当時の謀略戦の実態を知ることが出来ます。

 

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陸遜特集

 

 

個性豊かな武将たちの調整役「趙儼」

趙儼

 

趙儼(ちょうげん)は「荀彧(じゅんいく)」の推薦で曹操(そうそう)の配下になった人物です。始めは「県長」という現在の県知事に当たる役職に就き、税の緩和や犯罪の摘発を行い、人民に感謝されたといいます。その働きが曹操の目に留まり、中央で活動するようになります。

 

李典や楽進と張遼は不仲

 

当時「于禁(うきん)」「楽進(がくしん)」「張遼(ちょうりょう)」の三人は別々の場所に駐屯していましたが、お互いに仲が悪く、軍事に支障をきたしていました。そこに派遣されたのが趙儼で、彼は3人の間を見事にとりもち、仲直りさせることに成功します。

 

張コウ 張郃

 

その後曹操が荊州(けいしゅう)侵攻をした際には「張郃(ちょうこう)」「朱霊(しゅれい)」など7人の武将を統括する役目を与えられ、7人とも趙儼より位の高い将軍でしたが見事に任務を果たしています。その後も多くの軍の統括をして、曹操の覇業に陰から貢献しました。

 

冷静に分析をする趙儼

 

かなり個性の強い武将の間で立ち回った趙儼はきっと親しみやすく、頭のいい人物だったのでしょう。

 

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張遼

 

 

三国志ライターみうらの独り言

みうらひろし(提供)

 

以上個性的な3人の武将を紹介しました。いずれも頭を使って功績を上げた武将たちで、その立ち回りはとても面白いです。武を自慢とした武将たちとどんな会話をいていたのか、気になりますね。

 

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みうらひろし

歴史が好きになったきっかけはテレビの再放送で観た人形劇の三国志でした。そこから歴史、時代小説にはまり現在に至ります。日本史ももちろん好きですよ。推しの小説家は伊東潤さんと北方謙三さん。 好きな歴史人物: 呂蒙、鄧艾、長宗我部盛親 何か一言: 中国で三国志グッツを買おうとしたら「これは日本人しか買わないよ!」と(日本語で)言われたのが思い出です。

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