「三国志」の花形はなんといっても武力を使い相手をねじ伏せ、血沸き肉躍る活躍をする武将たちです。その一方で、頭を使い「知力」で活躍した武将たちも沢山いるのです。
今回の記事ではそんな「知将」と言われる三国志の登場人物を3人ピックアップしてみましたので、ご覧ください。
舌快調!馬超も納得!「李恢」その1
李恢は建寧郡兪元出身です。この地は現在の「雲南省昆明市」周辺で、当時の「益州」の南部に位置していました。始めは劉璋に仕えていましたが、劉備が劉璋を攻撃した際に「劉備が勝つだろう」と予測した李恢は「郡の使者」という名目で劉備に会い、気に入られてそのまま配下になることになりました。
あるとき劉備は「張魯」に仕えていた「馬超」が張魯軍の中で立場が危うくなっていることを知ります。劉備は馬超を味方に引き入れたいと思い、李恢を馬超の元に派遣します。
なぜ李恢を派遣したのかは不明ですが、恐らく李恢は話がうまい人物だったのでしょう。李恢は馬超の説得に成功し、馬超は蜀軍で重きをなすようになっていきます。なお、小説「三国志演義」では李恢と馬超は旧知の間柄という事になっていますが、正史「三国志」にはそのような記述はありません。
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南方で敵軍を手玉に!「李恢」その2
221年に益州南部を統括していた人物が死去しました。劉備は「後任は誰がいいかな?」と李恢に尋ねました。
李恢は「素晴らしい君主が上にいれば臣下は全力を尽くすものです。前漢の趙充国は自分を推薦したといいます。」と遠回しに後任を望みました。劉備はこの返答を気に入ってしまい、李恢を後任に据えたのです。相変わらずの李恢、舌好調です。
劉備の死後、李恢の出身地近くの益州南部の武将たちが反乱を起こします。李恢は諸葛亮と別働隊で従軍しますが、大軍に包囲されてしまいます。そこで李恢は「最近めっきり故郷に帰れずにいたが、ようやく帰ることができた。もう北に帰ろうとは思わない。君たちと心は一緒だ。嘘じゃないぞ。」と嘘をいい、信じた武将たちは包囲を緩めます。
李恢はこの隙を突き出撃し攻撃、相手方を敗走させることに成功します。この功績で李恢は将軍に昇進、その後も南部では反乱がおこりますが、そのたびに自ら出撃し反乱を鎮圧しています。馬超の説得や南部戦線での嘘など李恢は舌をうまく使った知将でした。
ちなみに李恢は「横山光輝三国志」での
馬超「むむむ」
李恢「なにがむむむだ」
というセリフが一部で有名です。
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七通の手紙で相手を騙す「周魴」
周魴は呉郡陽羡県(現在の江蘇省)出身で、若いころから学識で有名で、のちに呉に仕えることになりました。
228年、孫権は度々呉領を侵す、魏の武将「曹休」を呉領におびきよせ、そこで叩く計画を立てました。
そこで曹休をおびき寄せるための偽りの内通者を募りました。周魴はその任を受け、7通の手紙で曹休を騙す計画を実行します。
先ず第一の手紙で内通を申し入れます。そして第二の手紙では孫権の自分への迫害を訴え、第3の手紙では呉内の内情を伝え、内通の具体的な手立てについて語ります。この間に孫権は度々周魴の元に使者を派遣し、わざと厳しい言葉を懸けさせます。そして周魴も謝罪をするふりをして、わざと髪を切ることまでしました。
当時は髪を切ることは刑罰としても通用するほどの事でした。これらの事によって曹休は周魴の裏切りを信じるようになります。
そしてついに曹休は大軍を率いて呉領の奥深くまで侵入。呉軍は当然この侵攻を知っており、曹休の退路を断ったうえで散々に打ち破ります。髪を落としてまで相手を騙した周魴は孫権に称えられ、爵位を受けることになったのでした。この7通の手紙は正史「三国志」に丸々収録されており、当時の謀略戦の実態を知ることが出来ます。
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個性豊かな武将たちの調整役「趙儼」
趙儼は「荀彧」の推薦で曹操の配下になった人物です。始めは「県長」という現在の県知事に当たる役職に就き、税の緩和や犯罪の摘発を行い、人民に感謝されたといいます。その働きが曹操の目に留まり、中央で活動するようになります。
当時「于禁」「楽進」「張遼」の三人は別々の場所に駐屯していましたが、お互いに仲が悪く、軍事に支障をきたしていました。そこに派遣されたのが趙儼で、彼は3人の間を見事にとりもち、仲直りさせることに成功します。
その後曹操が荊州侵攻をした際には「張郃」「朱霊」など7人の武将を統括する役目を与えられ、7人とも趙儼より位の高い将軍でしたが見事に任務を果たしています。その後も多くの軍の統括をして、曹操の覇業に陰から貢献しました。
かなり個性の強い武将の間で立ち回った趙儼はきっと親しみやすく、頭のいい人物だったのでしょう。
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三国志ライターみうらの独り言
以上個性的な3人の武将を紹介しました。いずれも頭を使って功績を上げた武将たちで、その立ち回りはとても面白いです。武を自慢とした武将たちとどんな会話をいていたのか、気になりますね。
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