曹操のすごさとは何か?曹操の「決断力」に迫る

2022年1月29日


 

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曹操に立ち向かう劉備と孫権

 

三国志」最大の英傑の一人として数えられる曹操(そうそう)。かつては『三国志演義』で悪役とされたことから、悪逆非道な人物としての評価が定着していましたが、近年では『演義』にとらわれず、曹操を「英雄」として再評価しようという動きが進んでいます。

 

北方謙三 ハードボイルドな曹操

 

そこで今回の記事では、そんな曹操のすごさはどこにあるのか、その「決断力」という点からみていきたいと思っております。

 

 

合理性と決断力がある曹操

悪の正義バットマン風 曹操

 

一般的に、曹操が一代であれだけの大勢力を築くことができた要因は、その合理的戦略にあると言われています。

 

曹操に重宝される賈ク

 

曹操は、有能な人材を好み、時には敵対していた人物であっても優秀な人材であれば、個人的な恨みを水に流し、積極的に登用するという姿勢を取っています。

 

呉と蜀を倒しに南下する曹操軍

 

これにより、多くの有能な軍師・武将が曹操のもとに集い、曹操の覇業を支えたといえるのです。しかし筆者は、そうした合理性のみならず、「理外の理」をつかみ取る決断力も曹操のすごさの一つではないかと思います。

 

曹操

 

今回は、そんな曹操が下した数々の決断について見ていきたいと思います。

 

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曹操孟徳

 

 

 

黄巾の乱討伐の後、役職を辞任して帰郷した曹操

曹操

 

曹操という人物は大宦官である曹騰(そうとう)の孫として生まれたことは有名です。後漢末期において、宦官は外戚(皇后の一族)との権力闘争に勝ち抜き、霊帝(れいてい)(在位168〜189年)の下で専横を行います。中央政府の権力を掌握した宦官勢力の家系に生まれた曹操も、若くして出世を遂げることになります。

 

怒る曹操

 

曹操は20歳の時、洛陽北部尉として洛陽の治安維持を担います。正義感の強かった曹操は不正を許さず、法令違反には厳罰をもってあたります。当時、有力な宦官であった蹇碩の叔父が法律を犯した際には、容赦なく撲殺しています。これにより曹操は宦官勢力から恨まれますが、結局大宦官の曹騰の孫ということもあり、処罰されることはありませんでした。

 

黄巾賊を退治する曹操

 

その後、184年に黄巾(こうきん)の乱が起こると、曹操は黄巾党討伐に功績をあげ、済南国の相(実質的な太守)に出世します。ここでもやはり、曹操は役人の不正を禁止し、邪教を取り締まるなど、済南の風紀を一新しました。

 

一人で逃げる曹操

 

この功績を買われ、曹操は187年に東郡太守に任命されますが、あろうことか曹操は任命を辞退して帰郷してしまいます。このまま太守となっていれば、出世の道は開かれていたはずですが、曹操はなぜ東郡太守の地位を捨てたのでしょうか。

 

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黄巾賊

 

 

なぜ曹操は太守の地位を捨てて帰郷したのか?

何進に見切りをつける蒯越(カイ越)

 

おそらく、曹操はこの後に中央政界で政変が起きることを見越していたのではないでしょうか。当時、朝廷では宦官勢力と外戚の大将軍何進(かしん)が対立していました。

 

十常侍(宦官)

 

宦官の孫である曹操は当然外戚勢力から敵視されていたはずであり、その一方で不正を許さず厳罰を持ってあたる曹操は、宦官勢力からも恨まれていました。だからこそ、このまま出世すればいずれ外戚・宦官の双方を敵に回すことになると考え、曹操はあっさりと地位を捨てたと考えられます。

 

誰しも出生や栄達にはひかれるものですが、自らの立ち位置をしっかりと見切り、出世や栄達の道をたやすく切り捨てた曹操の決断力は評価すべきではないでしょうか。しかし、歴史は曹操を必要としていました。この翌年、霊帝は自ら皇帝親衛隊の西園八校尉(さいえんはつこうい)を創設し、皇帝直々に八校尉の一人として任命された曹操は再び官界に復帰することとなります。

 

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宦官

 

 

官渡の戦いの勝敗を決めた曹操の決断

方天画戟を持つ呂布

 

その後、曹操は董卓(とうたく)呂布(りょふ)袁術(えんじゅつ)などと闘いながら覇業を進めていきます。後漢の献帝を手中に収めるとともに、強敵であった呂布を倒した後、曹操にとっての最大のライバルは河北の袁紹でした。

 

力をつけ始めた曹操をぶっ潰そうと考えた袁紹

 

河北四州を領する袁紹(えんしょう)は最大の諸侯であり、南下して一挙に曹操の勢力を覆そうとします。こうして、曹操と袁紹の決戦である官渡(かんと)の戦いが始まりました。豊かな河北四州をおさえる袁紹の兵力は曹操軍をはるかに上回り、袁紹は曹操に対して攻勢を掛けます。

 

顔良と関羽

 

しかし、曹操は、部下となっていた関羽(かんう)の活躍で袁紹軍の顔良(がんりょう)文醜(ぶんしゅう)を討ち取るなどし、戦況は一進一退となります。しかし、長期戦となれば兵力で上回る袁紹が勝つことは明白であり、曹操は一貫して不利な情勢でした。

 

袁紹を裏切り兵糧庫の場所を曹操に教える許攸

 

そんな中、袁紹の家臣であった許攸(きょゆう)が裏切り、曹操に降伏します。許攸は曹操に袁紹軍の兵糧のありかを教えます。これを知った曹操は、兵糧庫を急襲することで袁紹軍の食料を焼き、袁紹軍を兵糧攻めにする策を考えました。

 

兵糧を焼かれて慌てる兵士

 

そして、曹操は自ら少数の精鋭部隊を率いて、袁紹軍の兵糧庫を夜襲しようとします。この策には曹操軍の名だたる群臣たちは猛反対します。それもそのはず、降伏したばかりの許攸の情報が真実だとは限らず、もしこれが罠なら一気に曹操軍は危機にさらされるからです。

 

兵糧不足に苦しむ袁紹

 

しかし、曹操は迷わず自ら先陣を切って夜襲を敢行し、袁紹軍の兵糧庫を燃やすことに成功します。これによって、食糧を失った袁紹軍は崩壊し、官渡の戦いは曹操の勝利に終わりました。

 

許攸の進言を無視する袁紹

 

この時の曹操の作戦は無謀なものではありませんでした。曹操は初めから、家柄を鼻にかけて臣下の意見に耳を貸さない袁紹に家臣たちが不満を抱えていることを知り、貪欲な性格の許攸が袁紹よりも曹操につく方がより大きな利益を得られることに感づいて降伏してきたことを見抜いており、そんな許攸が偽の情報を伝えるはずがないと考え、思い切った奇策に打って出たのです。

 

北方謙三 ハードボイルドな曹操

 

この一連の曹操の決断は決して一か八かの博打ではなく、冷静な人間観察から導き出された策だったと言えるのです。しかし、自分の考えを信じ、乾坤一擲の策に打って出ることは常人にはできません。ここからも、英雄・曹操の持つ卓越した決断力を見て取ることができます。

 

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官渡の戦い特集

 

 

三国志ライター Alst49の独り言

Alst49さん 三国志ライター

 

いかがだったでしょうか。今回は「決断力」という面から、曹操について見てきましたが、やはり自らを信じ、あれこれ思い悩むことなく、自分の策に身を投じることができる曹操は、常人離れした決断力を持っており、「英雄」と呼ぶにふさわしいのではないでしょうか。

 

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大学院で西洋古代史を研究しています。中学1年生で横山光輝『三国志』と塩野七生『ローマ人の物語』に出会ったことが歴史研究の道に進むきっかけとなりました。専門とする地域は洋の東西で異なりますが、古代史のロマンに取りつかれた一人です。 好きな歴史人物: アウグストゥス、張遼 何か一言: ライターとしてまだ駆け出しですが、どうぞ宜しくお願い致します。

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