蜀漢の二代皇帝であった劉禅は、263年の魏軍の侵攻によって降伏を決意しました。
その後、姜維が鍾会らと共に反乱を起こし、成都が戦火に見舞われる事態となりましたが、劉禅自身は洛陽へと移送され、そこで余生を過ごしています。今回は、劉禅が降伏してからの生活と子孫たちのその後を紹介していきます。
劉禅の降伏と洛陽への移送
劉禅は諸葛亮の息子であった諸葛瞻が綿竹関で戦死し、敵将の鄧艾が成都近郊にある?(らく)へ迫り降伏勧告をすると、それを受け入れて降伏しました。263年11月のことです。
そこから魏軍の内部では不穏な自体が連続しておきます。1つ目が264年の正月に蜀漢討伐戦の功労者であった鄧艾が、独断専行を疑われて更迭されたこと。
2つ目が同じく功労者の1人だった鍾会が1月16日に姜維と反乱を起こして、わずか3日で鎮圧されてしまったことです。また、反乱の際に太子であった劉璿も殺されています。
そうした事件を経て264年3月にわずかの部下や家族とともに劉禅は洛陽へ移住。それから間もなく司馬昭によって安楽公へと封じられました。安楽県は劉備の出身である幽州涿郡よりも東にある漁陽郡にある場所です。劉家と関連が深い幽州を封土として与えられたことになりますが、劉禅自身は幽州へは行かず洛陽で1万戸ほどの土地を得て余生を過ごしました。
関連記事:鄧艾はどんなルートで蜀を急襲したの?前人未到の過酷な山越えの真実
関連記事:謀反人の鄧艾はなぜ名誉回復できたの?晋の皇帝・司馬炎と段灼による裏話
関連記事:蜀征伐に乗り気じゃない鄧艾
劉禅の有名な発言「蜀は恋しくない」
劉禅が洛陽へ移住した後に司馬昭は宴席を設け、そこで劉禅に「蜀は恋しくないか?」と訪ねました。劉禅は「恋しくない」と答えたために暗愚と言われたり、蜀漢のファンからも反感を買う原因となっています。
この話には続きがあり、側近として付き従っていた郤正が、次に同じ質問をされたら「1日も想わない日はない」と答えるようにと劉禅に進言しました。再び司馬昭が劉禅に同じ質問をした際、劉禅は郤正の進言どおりに答えますが、司馬昭は「郤正の言葉と似ている」と言って周囲の者と笑ったそうです。
根拠はありませんが、劉禅は意識的にか無意識的に司馬昭に警戒されない行動をとった可能性があります。これは劉禅が降伏して間もなくの出来事であり、司馬昭も反乱には特に気を張っていたはずです。
また、司馬昭は郤正の言葉に似ていると言っていますが、これは郤正が司馬昭から同じ質問をされて、同じように返していることを表しています。つまり、少なくとも郤正本人は劉禅が自分と同じ返答をすれば、こうした自体になるであろう事が予測できていたでしょう。それが分かっていながら劉禅にあえて同じ返答をさせたのは、「劉禅自身が自分の考えを持たない無害な人間である」というアピールをさせたかったのではないでしょうか。
もしかすると劉禅もそれを分かった上で郤正の言葉に従ったのかもしれません。郤正は蜀に妻子を残したまま劉禅に付き従った人物なので、劉禅が安全に過ごせるよう陰ながらフォローしていた可能性は高いです。
関連記事:司馬昭と劉禅の宴会のシーン、賈充の言葉を噛みしめてみる
関連記事:劉禅のお目付け役!董允の性格とは?
劉禅の子孫のその後
劉禅には劉璿、劉瑤、劉琮、劉瓚、劉諶、劉恂、劉虔という7人の子供がいました。前述したように太子であった劉璿は鍾会の反乱時に殺されています。また、劉諶の話も有名で、降伏しようとする劉禅を諌めますが受け入れられず、失意の中で妻子を殺し、自らも命を絶ちました。
劉琮は262年、蜀漢が滅亡する以前に病没。それ以外の子どもたちは劉禅と共に洛陽へ移住して生活を送りました。
その後、劉禅は劉璿の死によって新たに世継ぎを決める事になりますが、その際に次男の劉瑤を差し置いて、特別可愛がっていた六男の劉恂を指名。これには文立が反対して諌めていますが、聞き入れられず劉禅の死後は劉恂が安楽公を継いでいます。
ただ、晋王朝滅亡のきっかけとなった永嘉の乱が発生すると劉恂を始め他の兄弟、そしてその子孫たちまでもが殺されてしまいました。
また、息子たちの他にも劉禅には少なくとも3人の娘がいたと言われています。1人は諸葛瞻、1人は費禕の子である費恭、1人は関羽の孫である関統と結婚しました。しかし、諸葛瞻の子の諸葛尚は父と一緒に戦死、関統には子がなかったそうです。
費恭の子については不明ですが、早くに亡くなったと記載があるので、子がいなかった可能性が高いでしょう。仮に子があったとしても永嘉の乱で全ての子孫が殺されているようなので、劉禅の血はここで途絶えたことになります。
一説には諸葛瞻の次子である諸葛京が今日に残る諸葛村の子孫と呼ばれていますし、三男の諸葛質のその後が不明なので、もしかしたらひっそりと劉禅の血脈も残っているのかもしれません。ただ、少なくとも劉備の血はその後も残っています。劉禅の弟である劉永の子、劉玄が戦火を避けて蜀の地へと逃げ延びたためです。
そして、旧蜀漢の領地で成漢を建国した李雄から、劉禅から劉恂へと受け継がれていた安楽公の爵位を賜っています。劉玄は成漢の滅亡時にも生存が確認されているので、おそらく子をなして劉備の血脈を後世に残したことでしょう。
三国志ライターTKのひとりごと
劉禅は蔣琬の死後から親政を行っていたと言います。宦官の横行や政権内部の分裂などはありましたが、263年まで国家を運営してきたということは無能ではなかったはずです。
また、比較的壮絶な人生を送っている劉備やその他蜀漢の重臣たちと比べると、穏やかな人生を送った人物と言えます。
それが批判の原因にもなっているようですが、筆者は世渡りが上手という印象です。恐らく皇帝ではなく一介の役人クラスであっても、それなりの地位に就いて満足のいく生活を送っていたように思いますし、批判をされることもなく幸せだったのではないでしょうか。
関連記事:李邈とはどんな人?劉備、孔明、劉禅に毒舌を吐いて殺害された蜀の禰衡
関連記事:三国志の哀しい一面:蜀滅亡後、劉禅の後宮はどうなった?