魏の功臣「曹真」は曹操と同じ一族で、彼の覇業を助けたことでも知られていますね。
そんな曹真の死は、正史「三国志」と小説「三国志演義」では大きく違い、特に「演義」ではとんでもない演出がなされていたのです。今回の記事ではそんな曹真の生い立ちから死の描写について探ってみましょう。
この記事の目次
曹真の生い立ち
先ずは曹真の生い立ちから見てみましょう。曹真は曹操の甥にあたる人物で、父親は曹操の挙兵の際に参加しています。しかし曹真の父は董卓の部下といさかいを起こし、殺されてしまいます。
この時曹真はまだ幼かったため、それを憐れんだ曹操に引き取られ、息子同然に育てられたのです。
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曹操の親衛隊「虎豹騎」の指揮を任される
曹真の武勇を示すエピソードがあります。彼が狩りに出た際、虎に追われてしまいました。しかし曹真は馬の上から後ろ向きに矢を放ち、それが一撃で虎に命中、虎を仕留めることが出来たというのです。
これを聞いた曹操は曹真の武勇をほめたたえ、しかも曹操直属の騎馬部隊である「虎豹騎」の指揮を任せることにしたのです。
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蜀との戦いで功績を挙げる曹真
「虎豹騎」の指揮官として数々の戦いに参加したのち、主に「漢中」方面で将軍として蜀軍と戦う事になります。「定軍山の戦い」で魏の武将「夏侯淵」が戦死してしまうと、曹操から「征蜀護軍」という地位を与えられ、蜀との戦いの最前線に立ち、度々蜀軍を撃退しています。
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曹丕からも信頼され、魏の重鎮になった曹真
曹真は幼いころから曹操の息子同然に育てられましたが、曹操の実の息子「曹丕」とも兄弟のように育ちました。曹操が亡くなり、曹丕が皇帝に即位してからも彼からは絶大な信頼をおかれ、「都督」という軍政を統括する役職に就いたのです。
曹真はおもに魏西部の「雍州・涼州」の責任者となり、多くの反乱の鎮圧に従事しています。226年に曹丕が亡くなる直前には司馬懿らと共に後継ぎの「曹叡」の補佐を任され、曹叡が即位すると大将軍の位に就き、軍事を司ることになります。
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諸葛亮との戦い
諸葛亮が北伐を開始すると、曹真はその対応に当たります。曹真は侵攻してくる諸葛亮を撃破し、「陳倉城」を囲まれた際には諸葛亮の動きを読み、援軍を派遣し、諸葛亮を撤退させることに成功しています。
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【北伐の真実に迫る】
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