「曹真」は幼いころから曹操の側近として活躍し、数々の戦で功績を挙げた魏の功臣の1人です。
そんな曹真には6人の息子がいたのですが、曹真の死後、彼の地位を継ぐものの、悲しい最期を迎えてしまいました。今回の記事ではそんな曹真の息子たちについて探ってみましょう。
この記事の目次
曹真の大きな功績とは?
曹真の父は、同族として曹操の挙兵に参加しましたが、董卓の配下といさかいを起こし、殺されてしまいました。その時まだ幼かった曹真の事を曹操は不憫に思い、自ら引き取り息子同然に育てたといいます。
その後は曹操の下で将軍として数々の功績を挙げ、曹操の死後、息子の曹丕にも一族の重鎮として信頼されていました。曹丕の死後は司馬懿などと共に曹叡の後見をまかされ、諸葛亮の北伐への迎撃で活躍し、蜀征伐にも赴きますが、蜀が滅びる前に亡くなっています。
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6人の息子たち、曹真の跡を継ぐ
曹真の死後、その爵位は息子の「曹爽)」が継ぎますが、そのほかの5人の息子(曹羲、曹訓、曹則・曹彦・曹皚)も列侯(高い爵位)を与えられました。
そして曹爽は皇帝曹叡の死の間際、次の皇帝「曹芳」の後見を司馬懿らと共に託されます。
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権勢をふるう「曹爽」
曹叡の死後、跡を継いだ曹芳の下で曹爽は魏の実権を握ります。同じく曹芳の後見を任された司馬懿は当時、蜀の北伐等への対応に従事していたため、曹爽が中央で権勢をふるいます。
しかし、曹爽は更に魏の政治軍事ともに掌握したいと考え、司馬懿が邪魔になります。彼を除こうと考えますが、司馬懿の戦での功績は大変大きく、彼から軍権を奪う事は出来ませんでした。曹爽も負けじと蜀に戦を仕掛けますが、逆に大敗してしまい、ますます司馬懿への注目が高まります。
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司馬懿と曹爽、対立する
曹爽は蜀に大敗し、後に呉侵攻にも敗れ、魏の政治は混乱します。にも関わらず、曹爽はさらに自分に権力を集中させようと考え、皇帝をもないがしろにし、司馬懿とも対立しました。
司馬懿はこの混乱に巻き込まれるのを避けるため、仮病で引き籠り、権力奪取の機会を狙います。曹爽は司馬懿を警戒し、部下に様子を見に行かせます。司馬懿は女中に介護させるなど病気が重いという芝居をし、曹爽の警戒心を解くことに成功します。
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クーデターで悲しい最期を迎えた曹真の息子たち
249年、皇帝曹芳は先帝の墓参りをするために「高平陵」という陵墓(皇帝の墓)に向かいます。これには曹爽とその弟も付き従いました。司馬懿は曹爽たちが都を空けたのをみはからい、皇帝の母に「曹爽が私利私欲に走り、皇帝をないがしろにしている、地位をはく奪すべし」と上奏します。
司馬懿は曹爽排除の許可を取り付け、息子らにあっという間に宮廷を掌握させます。曹爽はあわてて司馬懿の真意を探らせると、曹爽を糾弾しているものの、命を奪うほどではないと判断しました。周囲は反対しましたが、曹爽は戦わずに司馬懿に降伏します。
しかし、結局は謀反の疑いをかけられ、一族皆殺しになってしまいます。この一連のクーデターを「高平陵の変」といいます。その後司馬懿の一族は権力を完全に掌握し、後に魏を滅ぼし「晋」を建国することにつながっていくのです。
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