官渡の戦いで覇を競った曹操と袁紹ですが、曹操は河南一帯と江蘇の一部を、袁紹は河北に山西、山東を支配していました。両陣営とも領土的にはそれほど大きな差はありませんでしたが、その兵力は10倍の開きがあったと言います。
袁紹軍の兵力は10万
武帝紀によれば公孫瓚を滅ぼし、冀、幽、并、青四州を掌握した袁紹軍は、10万を超える兵を有していたとあります。程昱伝も同様に、袁紹は黎陽から10万の軍兵を擁して南進を図ったとあるので、袁紹軍の数字は正しいと言えるでしょう。
また、袁紹伝には袁紹は数十万の兵を有し、審配と逢紀に軍事を統括させ、参謀には田豊と荀諶、許攸、将軍には顔良と文醜を任命し、選びぬかれた精兵10万に1万の騎兵を率いて許都を襲撃しようとしたとあります。つまり、官渡の戦いで動員された兵力は11万ですが、袁紹軍全体の兵力はさらに多かったということでしょう。
関連記事:公孫瓚が滅びた理由は逆ギレ?公孫瓚の従弟・公孫越の死が招いた誤算
関連記事:公孫瓚や曹操が戦った青州・徐州黄巾軍とはどんな連中だったの?
袁紹軍全体の兵力
蔡琰伝には曹操が袁紹らを滅ぼし、冀州牧を兼ねた際に冀州は戸籍が30万を超える大州であると言っています。後漢書の郡国志にある各郡の戸籍と人口を算出すると冀州の戸数は約90万戸で、人口は約600万人です。
これがいつ頃の記録かは定かではありませんが、河南尹の戸数に関しては永和5年(西暦140年)の記述が見られるので、この年を基準とすると約60年間で戸籍が3分の1に減少していることがわかります。
人口も同じように考えると官渡の戦い前後における冀州の人口は約200万人。この5%が兵員だったとすると10万人、10%とすると冀州だけで20万程度の兵力を有していたとことになります。
また、公孫瓚を降したことでその兵力も吸収しているはずなので、それらを合わせると最大で30万程度の兵力はあったのではないでしょうか。袁紹は他にも并州と青州を有していましたが并州は戸数が少なく、冀州に次ぐ戸数を誇る青州は戸籍を正確に把握していなかったようです。
袁紹伝が引く九州春秋の記述を見るとわかりますが、袁譚が青州刺史となった際に1万戸を超える城邑も記録上は数百となっており、租税は3分の1にも満たなかったとあります。旧公孫瓚軍は戦が終わったばかりですし、そのまま編成する可能性も低いです。そのため、官渡の戦いに動員されたのは冀州の中枢を担う兵たちだったと考えられます
関連記事:袁紹は英雄たる器ではなかった?不遇な袁紹をフォローしてみたい
関連記事:袁紹は自分の長男を養子に出すことで袁家の家督を取り戻そうとした?
曹操軍の兵力は1万人?
武帝紀によれば建安5年8月の時点で兵は1万に満たず負傷者の数も2,3割に上っているとあります。また、荀彧伝でも曹操が許都への帰還について相談した際に、荀彧が10分の1の兵ですでに半年持ちこたえていると励ましているので、曹操軍の兵力は1万前後と考えられています。
ただ、裴松之が反論しているように曹操は挙兵からほぼ負けておらず、青州黄巾勢力を降して30万という軍勢から精兵を編成していること、8万人近い袁紹兵を坑殺した人員など疑問も少なくありません。
そこで考えられるのは、武帝紀の記載が曹操の直轄として動いていた部隊の数であり、全軍ではなかった可能性です。実際、官渡の戦いに前後して劉表が袁紹に加勢したり、関中では馬騰と韓遂が争いを繰り広げていたり、孫策も許都急襲を企てるなど曹操領の周囲は不穏な情勢が続いていました。
そのため、兵力を分散せざるを得ず、曹操の部隊も1万程度しかいなかったと考えられます。また、荀彧が述べている言葉は弱腰になった主君を励ますものなので、多少盛って話をしている可能性もあります。
関連記事:「王佐の才」と謳われた荀彧とはどんな人物だったのか?
関連記事:華やかな貴族文化が花開いた唐の時代、荀彧が憧れの対象となった「香り」とは?
曹操領内の人口
では曹操軍全体の兵力はどれくらいだったのでしょうか?
前述した戸籍を元に計算すると、後漢時代は曹操領内の人口が約1,600万人、袁紹は約1,230万人です。これが3分の1に減少したと考えると曹操が約540万人、袁紹が約410万人となるので、兵力も曹操の方が上だったと考えられます。
しかし、曹操の支配した地域のうち徐州、豫州、兗州は張角が黄巾党の信者を獲得した地域です。さらに徐州は曹操が自ら虐殺を行っていますし、董卓が洛陽を廃墟としたことで大規模な人口の流出が起きています。
加えて、194年にはイナゴによる大飢饉が発生し、穀物の価格高騰によって人が人を食らう状態でした。そのため、曹操の勢力下にはそれほど多くの人口がいなかったというのが実情でしょう。
関連記事:太平道はどのような思想だったの?張角が広めた太平道の思想を解説
関連記事:太平道の張角とはどんな人?正体は後漢末期のカウンセラーだった?
曹操の挙兵から官渡までの兵力推移
曹操が兵を獲得した、あるいは戦闘によって失った経歴を抜粋しました。
189年 挙兵し5千の兵を集める
191年 黒山賊の白繞を破り、東郡太守に任命される
192年 10万あまりを率いていた黒山賊の眭固、于毒、匈奴の於夫羅らを撃退
兗州牧となり30万の戦闘員を抱える青州黄巾党と戦い降伏させる(青州兵を獲得)
194年 兗州を奪った呂布との戦いに破れ、青州兵が大打撃を被る
196年 汝南黄巾軍を破り、何儀とその部下を降伏させる
197年 張繡が降伏するが、反乱を起こされて敗北
198年 張繡を撃破
呂布を討伐して兗州の一部と徐州を制圧
199年 再び張繡が降伏
上記の中で分かっているのは、曹操が挙兵時に5千の兵を有していたことです。しかし、これらは長安に逃げた董卓を追撃した際に壊滅しています。その後は揚州へ逃れて徴兵し、東郡太守となった時に多くの人材が曹操のもとに集まりました。その後は戦闘によって兵の増減がありますが、詳細はわかりません。
ただ、総合的に考えても5万以上、あるいは10万程度の兵力を抱えていたとしても不思議ではないです。袁紹ほど余力はなかったと思いますが、10分の1という計算にはならないでしょう。
関連記事:曹操、宿敵を破る!曹操が「官渡の戦い」で勝利できた理由とは?
関連記事:官渡の戦い以前から確執はあった?沮授は「主に恵まれなかった」のか?
三国志ライターTKのひとりごと
曹操は四方を敵に囲まれていて、袁紹はたびたび劉備を派遣して汝南を荒らしています。また、関中方面では韓遂と馬騰が争うなど不穏な動きもありました。
加えて、劉表と孫策の動きにも警戒が必要でしたし、袁譚が治めていた青州方面の備えにも臧覇を置いています。官渡に戦力を集中させることは不可能であり、万一に備えて各地に兵を配置する必要はあったはずです。そう考えると局地的に袁紹軍との兵力差が10倍となる場面があったとしても不思議ではありません。
関連記事:三国志は謀反の繰り返し!呂布の部下、臧覇とは?呂布配下のナンバー2
関連記事:魏ファン必見!曹操廟の功臣たち、二十五功臣はどうやって選ばれたのか?