馬謖と姜維は、よく諸葛亮の弟子として語られます。実際に弟子であったという記述はありませんが、いずれも諸葛亮から評価をされていた人物であり、諸葛亮がいなければ厚遇される可能性はなかったかもしれません。
ただ、どちらもやらかした人物として有名なので、実際に能力や評価が一致していたのかを列挙しつつ、二人を比較してみたいと思います。
馬謖と姜維の出自
馬謖は荊州襄陽の出身で、5人兄弟の末っ子です。馬氏一族は優秀ということで知られ、中でも馬謖の兄である馬良が最も優れていると言われていました。
そんな馬良と馬謖は劉備が荊州を統治した際に従事に任命されています。
姜維は天水郡冀県の出身で、天水の豪族であった羌氏の一族です。父である姜冏は馬超が羌族を率いて冀城を攻めた際に戦死していて、姜維は父の功績によって魏の中郎に任じられます。
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諸葛亮との関わり
馬謖は当初、劉備に従って入蜀を果たし、それから成都と綿竹の県令、越嶲郡の太守となりました。そして諸葛亮に才能を見いだされ、たびたび軍略についても話し合うようになります。
襄陽記によれば諸葛亮は南征に際して馬謖にアドバイスを求め、その言葉に従って南蛮の民を服従させました。こうした信頼もあってか、諸葛亮は第一次北伐の際に周囲の反対を押し切って馬謖に先鋒という大役を与えます。
しかし、馬謖は暴走して張郃に破られてしまい、その責任をとって諸葛亮に処罰されました。
姜維はというと天水太守の馬遵に従って巡察に出かけた際に諸葛亮が第一次北伐を行い、各県が降伏をします。その報告で疑心暗鬼になった馬遵は姜維ら部下を置いて逃亡し、姜維も冀城の門が閉ざされていて、帰還ができなかったために蜀漢に帰順するしかありませんでした。
その後、姜維は諸葛亮によって才能を見いだされ、官職を与えられて重用されるようになっていきます。
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諸葛亮の両者に対する評価
劉備は馬謖を口先だけで中身が伴わないと低く評価していましたが、諸葛亮は馬謖の才能を高く評価していました。そのため、諸葛亮と馬謖は南征の戦略について長きに渡って相談しあっていたようですし、馬謖の語った心を攻めるという方法を取り入れて、しっかりと成果を残しています。
姜維に関しては帰順を後に、諸葛亮が張裔と蔣琬に対して手紙を送り、「与えられた仕事を忠実に勤め上げ、思慮は精密、その才能は馬良や李劭以上、涼州の上士である」と評価していました。
他にも「用兵にも秀でている上に胆力もあり、兵の気持ちを汲み取ることができる」と主に軍面の才能を高く買っていたようです。
そのため、姜維には倉曹掾という食料庫を管理する役職を与え、さらに奉義将軍の官位と当陽亭侯の爵位を与えられていますし、劉禅にもお目通りをさせたいと言わせるほど高い評価を受けていました。
評価だけを見ると、馬謖とは話が合う間柄であり、自らも教えを請いたいという少し特殊な間柄であったように思えます。姜維はこれからの成長が楽しみであり、色々な仕事を任せていきたいという意欲のようなものを感じますが、馬謖のような親しみはなかったようです。
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馬謖と姜維の実像
馬謖は劉備が評価をしたように、いざ諸葛亮が第一次北伐の先鋒にすると張郃に破られています。この結果だけを見ると、劉備の言ったように馬謖は口先だけと見受けられますが、実戦で成果を発揮できるタイプではなかったのかもしれません。
むしろ、実行は諸葛亮などに任せて、戦略面などを考える裏方ポジションの方が合っていたようにも見受けられます。
姜維については鄧艾との戦績は悪かったものの、北伐では何度か勝利を収めていますし、魏が益州へ侵攻してきた際も鍾会の軍を剣閣で足止めしています。
そのため、諸葛亮の評価にあった用兵が巧みという点は間違いないでしょう。ただ、北伐を連年繰り返したことは思慮がある行為とは思えませんし、兵の気持ちを汲み取っているとも思えません
。なので、姜維は真面目ではあったものの融通が効かない頑固な人物だったと考えられます。
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三国志ライターTKのひとりごと
諸葛亮が臨終に際して、後継者を指名した際に、蔣琬と費禕の名前は挙がっていますが、姜維の名前は出ませんでした。諸葛亮は姜維を優秀であると判断しながらも国を任せられるほどの器量がないことを見抜いていたのかもしれません。
馬謖に関しては完全に起用ミスだったと思いますが、必ずしも劉備の評価が正しいとも言えないように思います。弁が立つという点では外交官を務めさせるなどすれば、十分に結果を出した可能性があります。
個人的には諸葛亮は馬謖が好みであったように思うので、大きな失敗をしなければ後継者の一人として名前が挙がっていたのかもしれません。みなさんはこの二人をどう評価しますか?
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