諸葛亮は劉備の死後、夷陵での敗戦によってボロボロになった蜀漢を1つにまとめ上げ、北伐という起死回生の一手を放ちました。
結果的に大きな戦果は上げていませんが、その北伐の戦略は常に周到な準備がされていて、その後に大きなプランを実行しています。
そこで今回は、諸葛亮の北伐戦略がどのように構成されていたのかを考察してみたいと思います。
第一次北伐における準備
筆者は諸葛亮が虚を突くのが上手い人物だと考えています。その理由は第二次と第四次北伐において、撤退をしながら王双と張郃を討ち取っているためです。
そして、それは最初の北伐にも現れています。魏は蜀漢の中で英雄と呼べる人物は劉備くらいしかいないと舐めてかかり、劉備の死後に魏への軍事行動がなかったことから完全に油断をしていました。
諸葛亮はそういった魏の慢心を逆手に取り、何年もかけて北伐の準備を進めていきます。その足がかりと言えるのが225年に行った南征です。
これは反乱を鎮圧することで後顧の憂いを断つと同時に、南中の民に税を課して戦費を捻出し、さらに「無當飛軍」という異民族部隊を編成するなど戦の準備を着々と進めていきます。
人事面においても南征前に犍為太守だった陳震が召還され尚書となり、翌年には尚書令だった李厳が江州へ駐屯して、陳震が空席となった尚書令へ昇進。
また、南征に前後して呉に囚われていた張裔が帰国したため、参軍及び治中従事に任命。諸葛亮が北伐を開始するとこれを留府長史としています。
李厳は軍事面の後方支援に専念していますが、張裔に行政と地方の管理監督を、陳震には朝廷内のまとめ役を任せることで内側をガッチリと固める人事編成をしたのです。
他にも蜀漢を裏切った孟達に書簡を送り、叛意を刺激しています。こちらは早々に潰されてしまいますが、第一次北伐事に魏の戦力を分散させつつ内部の混乱を煽るという目的がありました。
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第一次北伐の目的
準備が出来た諸葛亮は出師表を上奏して士気を高め、北伐を開始します。
進軍に際しては超雲と鄧芝を囮とし、自らは主力を率いて祁山を攻撃。この奇襲作戦は見事に功を奏し、早々に天水、南安、安定の3郡が降伏します。
諸葛亮は街亭と上邽を抑えることで、魏軍の進路を阻み、祁山より西方を魏から切り離しにかかります。これは羌族や氐族といった異民族の協力を得ることや長安を攻略する際の拠点を作るためです。
諸葛亮は当初、益州と荊州の二方面に加え、異民族及び孫呉との協力によって魏を倒すという構想を持っていました。そのため、失った荊州の代わりとして雍州の一部と涼州を抑えるつもりだったのでしょう。
しかし、孟達が北伐前に殺され、孫呉との連携もうまく行かず、結局は蜀漢単体による作戦となってしまいます。
さらに馬謖の大敗や上邽、箕谷での防衛も上手く行かなかったために、諸葛亮の作戦は失敗に終わりました。その結果、魏では隴右方面での防衛強化が進められ、容易には手が出せない状態となります。
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第四次北伐に向けた準備
初回の失敗以降も第二次、第三次と北伐は続いていきますが、いずれも大きな戦ではありませんでした。
特に第二次北伐は20日程度の兵糧しか用意していなかったことから、第三次北伐で攻めた武都、陰平を攻めるための囮だったとも言われています。
武都は漢中から祁山へ出る際の通り道となっていて、さらに羌族や氐族が多く居住する地域です。
人口自体は多くないので魏にとっては戦線が押し上げられるというだけで、そこまで大きなダメージはありません。ただ、あえてそういった場所を攻めたということは、武都と陰平を落としたことが第四次北伐のための布石だったと考えられます。
人事面においては知識や決断力があったとされる李福を尚書僕射(尚書令の次官)に任命し、その前後に亡くなった陳震の代わりとしました。
丞相府では楊儀を長史、蔣琬は留府長史とし、さらに南中の平定後の民衆の慰撫で高い評価を得ていた馬忠を蔣琬の補佐兼死去した張裔の後釜として治中従事に据えるといった異動を行っています。
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【北伐の真実に迫る】
第四次北伐の目的
第四次は初回と同じく祁山へ進軍をしました。一度目と違うのは魏がしっかりと守りを固めていたので、奇襲は通用しないということ。
そこで諸葛亮は木牛という運搬器具を開発し、兵糧の運搬効率の改善を図りました。加えて武都を落としていたことで兵糧の運搬がしやすくなり、以前よりも長い期間の戦争が可能になったのです。基本的に北伐のスタンスは変わらないので、今回も祁山を中心に雍州と涼州を切り取ろうという作戦です。
まずは祁山を抑えていた魏軍を包囲し、諸葛亮は自ら奥深くにある上邽へと進み、祁山の救援に来た司馬懿らと対峙します。
また、諸葛亮は戦に先駆けて各異民族に出兵の打診をしていたようで、それに呼応した鮮卑族の軻比能が、長安が狙える北地郡石城まで進軍し、魏軍の後方を動揺させました。
ただ、今回はさらに後方を担当していた李厳が兵糧輸送の遅延から撤退を進言。諸葛亮は鹵城で魏軍を打ち破ったものの、祁山は落とせないまま作戦は中断となりました。
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第五次北伐の準備と作戦目的
五度目の北伐はそれまでとは異なり、褒斜道を通って長安方面へと進軍しました。
前回の北伐から3年という期間が経過していて、その間に兵の休息や調練、農耕を行っていますし、前年には斜谷口に兵糧を集積し、険阻な道でも運搬ができる器具「流馬」を開発しています。
このことからも諸葛亮は祁山への進出を諦め、秦嶺山脈を超える方向へと戦略を大きくシフトしていました。ただ、基本的な目的は変わっておらず、五丈原の近くにある街道を封鎖して魏軍の隴右への進軍を阻みつつ、そのスキに西方を切り取るというものです。
こうした諸葛亮らしからぬ大胆な戦略の転換は、自身の体調的な問題か国力的な限界もあり、早々に雍州と涼州の切り取りを完了させたかったという焦りのようなものを感じます。
個人的には諸葛亮は「私」よりも「公」を優先すると思うので後者だと思います。
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三国志ライターTKのひとりごと
諸葛亮は何度も北伐を行ったイメージがありますが、こうして見ていくと準備段階と実行段階がしっかりと分かれています。このことからも諸葛亮は第一次、第四次、第五次の3回のつもりで北伐を行っていたと言えるでしょう。
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