漢王朝は前漢、後漢と二つの時代があります。この前漢と後漢を合わせると400年ほどになり、かなり長い王朝だったと言えるでしょう。
その王朝に代わったのが、魏王朝です。魏王朝は献帝に禅譲を受けた曹丕から始まり、その子曹叡、そしてその養子である曹芳と続いていくのですが……この後継者選定、曹丕の代から既にグダ付いている……?
今回はこの辺り、ちょっと追っていってみたいと思います。
この記事の目次
曹叡は後継者ではなかった……?
まずは曹丕の長子、曹叡。彼は曹丕と甄皇后の子でしたが、甄皇后は曹丕によって誅殺されました。
これについては色々と言われていますが、魏略によればそもそも曹丕は曹叡を可愛がっておらず、別の子を後継者にしたいと思っていたと言います。このため、曹叡は長子ではあったものの、皇太子とはされていなかった……とされています。
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曹叡やっと皇太子に
226年、5月の16日。曹丕が倒れて危篤となりました。このために皇太子となったのが曹叡です。つまりこの時点まで皇太子がいなかったこととなります。曹丕が亡くなったのが翌日の17日となっているので、もしかしたらかなり容体はよろしくなかったのかもしれません。
ここで曹丕は曹真、司馬懿、陳羣、曹休というそうそうたる面子を集めて曹叡を託して崩御します。曹丕、40歳でした。
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曹丕の後継者選びが遅れた理由
これらを統括すると、曹丕はギリギリまで太子を立てず、後継者を決めかねていた、と見ることができます。ただ曹丕の父親である曹操も217年に曹丕を太子に正式に指名し、220年に亡くなっていることを考えると、後継者選びは大体熟考して行われるものであり、そこまで珍しいものでもなかったのでは、と思われます。
年齢を考えると曹操も60過ぎて正式に曹丕を任命していますし、もしかしたら曹丕も自分はこんなに早く亡くなるとは思っていなかったのかもしれません。ただ、曹丕のこの短命が魏の命運も縮めた可能性は否定できないでしょう。
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皇帝になり数年は奮闘する曹叡
そして皇帝となった曹叡ですが、かなり精力的に行動します。後継を託された曹真、司馬懿、曹休、陳羣らを重用し、諸葛亮の北伐を幾度となく防ぎました。
また呉の侵攻には対しては合肥に満寵を派遣(孫権の悪夢再び)、蜀相手には司馬懿を派遣して防衛に当たらせるなど、人事に関しても中々の的確さを見せています。
特に司馬懿に関して信認は深く、公孫淵の反乱にも司馬懿を派遣しています。しかし、曹叡の勢いはここで止まってしまうのでした。もうちょっと言うと、曹真も231年には亡くなってしまっています……早すぎた……。
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在位13年で崩御した短命な曹叡
238年、曹叡は病に倒れます。曹叡自身は翌年の239年に崩御するのですが、危篤に陥った曹叡は養子である曹芳を後継者として最終的に司馬懿、曹爽らを後見人に改めて立てました。
この時、曹芳は8歳。そして曹叡は36歳でした。曹叡自身にも息子が3人ほどいましたが彼らはみな早世、なんと3人ほどいた娘も2人ほど早くに亡くなっています。このため養子として曹芳を引き取っていたと思うのですが……何とも奇妙なのが、この養子である曹芳、出自が不明なのです。
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後継者が政変や早死にで死に絶える
なんと魏の皇帝、3代目にして出自があやふや。曹丕の異母兄弟の曹宇達は免職となって、中央から遠ざけられる。夏侯家では蜀にいったり早逝したり、夏侯楙……知らない人ですね状態。頼りの曹真大将軍の後継者は曹爽だ!
そう、事ここに至って、曹家の親類縁者が全滅……とまでは行かないにしろ、中央に碌な人材が残されていなかったのです!これは司馬一族台頭してきちゃいますわ……。
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これは筆者の個人的な見解ですが、そもそも曹叡も36歳とかで亡くなるとは思ってはいなかったのではないかと思います。曹芳を引き取って育てていたのだとしても、もしかしたら実子が生まれるまでの中継ぎ、とも考えられます。
しかし自身が早逝、というかそもそも親戚も早逝が多く、目ぼしい人材が残っていなかったのではないでしょうか。この辺りは魏王朝の親類を重用しない政策が裏目に出ている気がしますね。このため曹芳というあやふやな後継者が生まれ、王朝としての命運が一層縮まったのではないかと考えました。
……まあ「じゃあ一族を優遇しちゃうぞ!」でも命運が縮まっちゃった王朝もあるのですが、それは別のお話で。
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三国志ライター センのひとりごと
「そもそも曹丕が曹叡を後継者に考えてなかった」という考えをすると、もしかしたら「そもそも曹叡も曹芳を後継者とか考えてなかった」という考えもアリなのでは?と思いました。
どうにも曹丕も曹叡も早逝過ぎて、後継者問題のグダ付きが見られます。何代も続けばそういう後継者問題も起きると思いますが、魏の不運なことはこれが初代と二代目で起こったことではないでしょうか。皆さんもどうか王朝を開く時には、まずは自身の健康を第一にお考え下さいね。
どぽーん。
参考文献:魏書明帝紀 魏略
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