三国を並べて名のある人物たちを見ていくと、やはり圧倒的なのが魏という大国。後世で人材ハンターと巷で噂の曹操が、身分に囚われず様々な人物を亭入れ手に入れ、多くの優れた人々によって支えられた国。
しかしその曹操が、生涯において「手に入れることができなかった」と嘆いた人物。それこそが、蜀に仕えた法正です。今回はこの法正が「どんな風に」すごいのか、それをお話したいと思います。
この記事の目次
劉備の最も寵愛した軍師・法正
さて法正を語る上で絶対に外せないのが劉備。その劉備と言えば、やはり多くの人々に支えられ、蜀という国を手に入れて漢中王となった人物です。そして、この劉備が最も信頼し、その死を悼んだとされているのが法正その人。
というのも法正は劉備が漢中王となった翌年、220年に病死したのですが、それから何日もの間劉備はその死を悼んでいたと言います……これだけなら良くある話ですが、法正はあるものを劉備から贈られました。それは翼候という諡号です。関羽や張飛でさえ贈られることがなかった諡号、それを法正には贈られたのでした。
劉備からの絶大な信頼得ていた法正
また法正は劉備から絶大な信頼を寄せられていました。定軍山の戦いの折に、危機に陥った劉備。周囲が諫めても撤退をしない劉備の前に、法正は矢から庇うように前に立ちました。これに焦って避けるように言う劉備を法正は諭し、落ち着きを取り戻した劉備は撤退を決めたと言います。
劉備が周囲の言葉を聞き入れず戦いを決めた、と言えば有名な夷陵の戦い。劉備敗北の報を聞いた諸葛亮は「法正が生きていれば止められただろうに」と零しました。戦場において、法正こそが劉備の「水」であったのかもしれません。
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似た者同士?曹操の郭嘉、劉備の法正
因みに致命的な敗北のちに「生きていれば」と言われた人物として、魏の郭嘉がいますね。郭嘉もまた曹操の腹心として仕え、その慧眼や軍略には目を見張るものがあった人物。
しかし郭嘉は早くに亡くなり、曹操はその死を深く哀しみました。赤壁の敗北にて曹操は「郭嘉が生きていれば」と嘆いたことで、良く郭嘉と法正は似ていると言われます。
それは陳寿も同じ考えであったのか、法正は魏の臣下に当てはめると程昱、郭嘉に比例する、と言っています……まあ別の理由も挙げているのですが、それは後ほど。
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どうして劉備が法正を信頼していたか
蜀の名軍師、と言われる法正、もちろんその慧眼も目を見張るものではありますが、どうしてそこまで深い信頼を劉備に寄せられていたか。
その理由の一つとして、蜀の地、が挙げられるでしょう。法正は張松と共に劉璋に仕えていましたが、劉備を蜀の新しい統治者として見定め、迎え入れました。土地を持たない劉備からすれば、何よりの恩人であったと思います。
張松は計画が露見して死んでしまいましたが、法正は首尾よく劉備に仕え、劉備の入蜀の手助けを行いました。この際に劉璋の配下、鄭度の策略を劉璋が用いることはない、ということを見抜いていたのは流石としか言えませんね。
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劉備にとって大きな意味を持つ、漢中を手に入れる手助け
もう一つ、法正が劉備に献上した土地……もちろん多くの武将たちの働きあってこそですが……それが漢中です。漢中攻略を進言し、定軍山の戦いでは魏の重鎮、夏侯淵を討ち取ることに成功しました。
漢中を手に入れたからこそ劉備は後に漢中王を名乗ることができたのです、この功績は大きいでしょう。この定軍山の戦いと漢中でのにらみ合いは、正に劉備が曹操に勝利した大きな意味を持つ戦い。
これに大きく貢献したからこそ、法正は名軍師、とされるのです。そしてこの後に夷陵の戦いで敗北すること、そこに法正がいなかったことを諸葛亮が嘆いたこと。
これらの印象から、法正はある意味「負けなし」の蜀の軍師として印象が残されているのではないでしょうか。インパクトも功績もすごい軍師、それが法正です。
曹操が唯一手に入れられなかった人物、法正
法正の凄さを後世に印象付けたのが、曹操の言葉です。曹操は定軍山の戦いで夏侯淵の死を聞くと嘆くと共に、その作戦が法正によって考えられて実行されたのだと知ると
「劉備にこんな作戦が思いつくはずがない!誰か得意の策士がいるに違いない」と言って、誰かを思い当ててその名前を問いました。そしてその名が法正であると聞いた曹操は「そうか、法正か。あれほどの人物がいるとは……」と、劉備の下に法正がいることを知って悔しがりました。
実際に曹操はかつて法正を自分の下に引き入れるために使者を送ったことがありましたが、法正はこれを断っています。このように法正は曹操が手に入れることのできなかった、数少ない人物の一人であり、その才能を曹操が認めたことも、後世に彼の名が残る大きな要因となったのでしょう。以上が私が思う、法正が三国志における大軍師と称される理由です。
三国志ライター センのひとりごと
因みに陳寿先生も「優秀だけど徳性まるで駄目だから魏で言えば程昱、郭嘉」と評しています。郭嘉も素行が悪くて陳羣に訴えられている所を見ると……いや死人は出てないとは思いますが、法正も不良軍師の一角であったのかもしれません。
しかし法正もまた早世しましたが、もし長生きしていたらどうなったでしょうか?
夷陵の戦いの敗北が無かったとして、そこからどうなっていたのか……そんなIFも、見てみたかったですね。どぼん。
参考:蜀書法正伝 華陽国志
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