宋の文帝劉義隆(りゅうぎりゅう)は裴松之(はいしょうし)に
「陳寿が作った三国志をより詳細にせよ」と命じられます。
その後裴松之は「三国志・注」を完成させ、宋の文帝に上奏します。
今回はこの裴松之の先祖に当たる三国志時代の裴潜(はいせん)を
紹介したいと思います。
関連記事:裴松之(はいしょうし)の神編集!異論反論ブチ込みまくりで三国志が激アツに!
関連記事:【衝撃の事実】三国志演義はゴーストライターによって書かれた小説だった!?羅貫中じゃないの?
関連記事:赤壁の戦いにモデルがあった?八陽湖の戦い
関連記事:え、そうだったの?蜀の五虎将軍、実は存在しなかった?五虎大将軍の真実!
この記事の目次
劉表から賓客として厚遇されるも…
裴潜(はいせん)は河東の人です。
彼は戦乱を避け荊州へ避難します。
荊州の刺史である劉表は彼を賓客して迎え厚遇。
しかし彼は親しくなった王粲(おうさん)や司馬芝(しばし)に
「劉表は王者でも覇者でもないのに、周の文王のようにふるまっている。
彼は近いうちに大失敗を犯すであろう」と予言。
周の文王とは多くの賢人を集め、仁政を敷いた古代の王です。
劉表は彼のようにふるまっているから、近いうちに失敗すると裴潜は予見し、
長沙へ向かいます。
予見が的中
曹操は河北を統一した後、荊州へ侵攻を開始します。
劉表は曹操が南下を開始した時、病に倒れていました。
彼は自分の後継者を長男の劉奇(りゅうき)ではなく、
次男の劉琮(りゅうそう)を指名した後、亡くなります。
しかし後継者の指名が遅すぎた事が原因で荊州は混乱し、
後を継いだ劉琮は一戦もしないで、降伏。
こうして劉表が築いた荊州は歴史に何も残さず無くなり、
裴潜の予見は的中します。
曹操に仕える
裴潜は曹操(そうそう)が荊州を平定した後、仕えます。
曹操は裴潜を倉曹属(そうそうぞく=穀物などを貯蓄する倉を管理する職)に任命。
この時曹操は劉備の事が気にかかり、裴潜に「あなたは以前劉備と共に荊州に居たが、
彼をどう思う」と尋ねます。
すると裴潜は「彼は中華を乱すことはできますが、戦乱を平定する事は出来ないでしょう。
もし彼が要害の地を得れば、一国の主となる事が出来る器量があると見受けました。」と
答えます。
関連記事:頭がキーン…頭痛に悩んだ曹操、三国志演義は医学的に正しかった?曹操の見た幻覚の原因は何だったの?
関連記事:曹操を好きになってはいけない6つの理由
関連記事:【意外と知らない?】孫子の兵法を読んだ偉人達!曹操やビルゲイツも愛読、人生や経営に役立つ名言が詰まった兵法書
鳥丸族の対処について
赤壁の戦いが終わってから数年後、幽州が乱れます。
この乱れに乗じて幽州北部にいる異民族・鳥丸が暴れまわります。
曹操は幽州の乱れを元に戻し、鳥丸を抑え込むため裴潜を幽州太守に任命。
曹操は彼が任地に赴く前に「鳥丸がいう事を聞かないようなら、討伐せよ」と命じます。
しかし彼は「兵で討伐するよりも、謀略を用いて鳥丸を抑えます。」と
言い任地へ赴きます。
関連記事:曹操 生涯最大の苦戦 烏桓討伐|完結編
関連記事:曹操の詩の世界を体験してみよう
見事鳥丸を抑え込む
裴潜は一台の車で幽州の代郡へ赴きます。
鳥丸達は討伐されると思い込んで恐れていたが、
新しい太守が兵を率いていない事に安心し、
今まで奪ってきた財宝や婦女子らをすべて返還します。
裴潜は在任三年間と短い期間でしたが、
彼が幽州太守となってからは一度も鳥丸は反乱を起こさず、
幽州は平穏に包まれておりました。
その後裴潜は中央に呼び戻され、丞相理曹属(じょうしょうりそうぞく)に
任命されます。
関連記事:【初心者向け】本田圭佑が憧れている曹操(そうそう)という人はどんな人だったの?
関連記事:曹操のお屋敷はガラスでキラキラだった?西域趣味の曹操が金髪美女とアモーレ・ミ―オ!
優れた予見が冴えわたる
裴潜は中央に戻ると曹操に「次の幽州太守は私のやり方を真似て、必ず寛大な統治を
行いますが、この統治が長く続くと鳥丸は再度暴徒化し、幽州は乱れる事に
なると思います。」と忠告します。
そして彼が幽州から離れて数十日後鳥丸が再度暴徒化し、
幽州各地を暴れまわります。
曹操は裴潜を戻すのが早かったと悔やみます。
曹操は鳥丸を討伐する事を決意し、曹彰を鳥丸討伐の総大将に任命し、
鳥丸討伐に赴かせます。
こうして裴潜の予見が再度冴えわたる事になります。
【次のページに続きます】