「赤壁の戦い」(せきへきのたたかい)は、ご存じの方も多いでしょう。
三国史上、中盤の山場と言って良いでしょう。
特に、三国志の三大勢力の 曹操(そうそう)、孫権(そんけん)、
劉備(りゅうび)が表舞台に初めて結集して登場し、
戦うという「一大戦国絵巻」とも言えましょう。
戦いの結末は、数十万とも言われる大軍で臨んだ曹操軍が、
その半数以下の劉備・孫権の連合軍に、火攻めによって大敗し、
曹操は命からがら、本拠地まで逃げ帰るというものでした。
もし、この時、曹操が死んでいたら歴史はどうなっていたでしょうか?
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孔明の予想
物語の「三国志演義」では、諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)の策で、
「赤壁の戦い」に大敗し、敗走する曹操の生命をわざと生きながらえさせるという行があります。
必死に敗走する曹操の前に立ちはだかる関羽(かんう)。
関羽は以前、曹操に攻められた際、劉備の妻子を守るために降伏し、
生命を助けられ、従った期間がありました。
その時、かなり厚遇されたとのことです。
その恩義もあったせいか、義に生きる人柄であった関羽は曹操を見逃すという行です。
ただ、この展開は孔明にとって初めから分かっていたことで、
敢えて曹操の生命を助け、孫権の勢力に拡大させないようにすることが狙いだったようです。
強大な二大勢力の曹操と孫権には互いに睨み合わせ、
勃興勢力の劉備が三つ目の勢力として、
それに加わり、一つの巨大勢力を他の二つが牽制する図式を作っておくのです。
最も勢力の劣る劉備が力を蓄える時間稼ぎとしての孔明の策だったようです。
この話が事実かどうかを別にしても、孔明が予想した、
曹操の死によって三国の情勢がどうなるかについては、説得力があります。
孫権の台頭?
前述の孔明の予想でも出ました、
まず予想できる展開と言えましょう。
しかし、史実では、「赤壁の戦い」の後、わずか二年後に、
孫権の軍師とも言える存在の周瑜(しゅうゆ)が死んでしまうため、
孫権勢力の拡大は厳しかったのではないでしょうか。
そもそも「三国志正史」の史実では、「赤壁の戦い」での軍略を立てたのは、
周瑜であったとされるのです。
しかし、演義などの物語では、周瑜は、劉備や孔明の引き立て役に収まっています。
そのような大人物がわずか36歳の若さで急逝してしまうのですから、
孫権勢力には相当な痛手であったでしょう。
そして、その周瑜の死については、明らかにはされていませんが、
以前の定説では以下のような経緯だったとされています。
曹操の本軍を赤壁の戦いで敗走させた後、周瑜たちが、
次々に他の曹操の軍兵たちの殲滅を試みますが、失敗します。
曹操の従兄弟にあたる曹仁(そうじん)たちの反撃に合い、阻まれるのです。
しかも、その反撃の合間に、流れ矢に当たったことが切っ掛けで、周瑜は死んでしまうというものです。
しかし、最近では、暗殺であったとも言われています。
特に周瑜は、劉備、孔明たちの勢力に好戦的な主張を繰り返していたそうです。
その勢力の誰かに暗殺されたという説も最近は出てきているとか。
そんな訳で、「赤壁の戦い」後に間もなく周瑜をな亡くし、
揺らいだように見えた孫権勢力ですが、周瑜の後継の魯粛(ろしゅく)、
呂蒙(りょもう)といった、知略に長けた優秀な武将によって支えられていたので、
劉備たちには脅威であったには違いないでしょう。
事実、呂蒙によって、劉備の義兄弟の、一翼を担っていた関羽は討たれます。
しかし、その呂蒙は関羽の死の直後に急死します。
魯粛はその数年前には死去しています。
孫権の勢力は、優秀な配下が次々と急死してしまい、まさに悲劇そのもの。
陰謀のようなものも感じられます。
そのため、孫権が抜きん出た勢力にはなりませんでしたが、
かと言って他の勢力と対抗する力は残っていました。
「魏」は誕生しなかった?
そして、次に気になるのは、曹操の勢力が潰えたのではないかということです。
ちなみに「赤壁の戦い」当時では、まだ、「魏」(ぎ)という国は誕生していません。
その戦いの数年後、後漢王朝最後の皇帝「献帝」(けんてい)より曹操が「魏公」の号を与えられることで初めて、
事実上、魏が誕生したと言ってよいでしょう。
とは言え、曹操存命中は、「魏」はあくまで 後漢王朝の臣下という位置づけになっていました。
あくまで保守勢力への配慮だったようです。
曹操の死後、その息子の曹丕(そうひ)が献帝より皇位を譲られて、
名実ともに「魏王朝」(魏の国)が誕生した訳です。
もちろん、魏の国の基盤を作ったのは、曹操ですから、
曹操がいなければ、誕生しなかったでしょう。
しかし、「赤壁の戦い」後、曹操勢力の配下では、
軍師・荀彧(じゅんいく)、張遼(ちょうりょう)などの名将が残っていました。
赤壁で戦死したのは、数十万とも言われますが
(ただこれは誇張された可能性が高く、実際には10万前後とも言われているようです。)
そして、その死者の多くは、赤壁の数年前まで河北地域の最大豪族勢力だった
袁紹(えんしょう)の元配下たちや黄巾党など、
これまでの曹操が駆逐した勢力の敗残兵の可能性があります。
精鋭部隊はまだ多く残っていたのではないでしょうか。
だからこそ、わずか数年で、曹操は巻き返しができたのかもしれません。
208年に「赤壁の戦い」で、213年が魏公に上り詰めた年、この間、わずか5年です。
おそらく、曹操がいなくても優秀な配下たちが残っていたはずです。
しかし、それをまとめ上げ、勢力を盛り返す手腕は、曹操のだったでしょうから、
曹操亡き後、魏の国は誕生せず、あくまで、形式でしょうが、
後漢王朝の献帝の引き立て役に収まっていた可能性も高いでしょう。
献帝の名の元に勢力拡大を狙ったかもしれませんが、
曹操亡き後にこれまでの勢力を維持できていたかは疑問視されます。
おそらく、曹操敗死ともなれば、
これまで従ってきた軍兵たちの中で他の勢力になびく者たちも多く出た可能性もあったでしょうし、
また周辺の少数の豪族や勃興勢力、遊牧民勢力などが大人しくしていなかったかもしれないでしょう。
ただ、曹操勢力は優秀な配下が生き残っている印象ですので、
そう簡単に滅びる気配はなく、それなりの勢力を維持したかと思います。
三国時代はなかったかもしれない?
さらに、劉備や孫権たちの大勢力が睨み合い、
おそらく、三国以上の群雄割拠の時代のまま時が流れた可能性が高かったのではないでしょうか?
そして、後漢王朝の皇帝「献帝」を誰が担ぎ上げる:か一奇小一’かで、
争いが続くことになったでしょうし、中には、独立国家の勢力も数多く乱立したでしょう。
そして、そのうち、多くの戦死者を出し、一つ朝大勢力により中国は統一されたのでしょう。
ただ、それは漢王朝の存続という形であった気がします。
漢の皇族を奉った上での政権運営が続いたのではないでしょうか。
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結局、曹操の存在意義は、強大なリーダーシップによって、大勢力を作り上げ、
それまで前後合わせて約400年に渡り続いた漢皇室に替わる、
新たな皇室の勢力を作り上げて、成功させたことでしょうか。
日本で言えば、「天皇家」に替わる勢力を作り上げたようなものです。
日本史上なら、「南北朝時代」のような時代です。
また、戦国時代の織田信長(おだのぶなが)も同じような事を
成し遂げようとした感があると言われています。
しかし、そのどちらも失敗に終わります。
そういう意味で、曹操はとてつもなく、大事業をやってのけた人だったのだということでしょう。
もしかしたら、織田信長は曹操に習ってやり遂げようとしたのかもしれません。
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