江東に勢力を張った孫氏一族。
その始まりは孫策(そんさく)が父・孫堅(そんけん)の兵を引き継いだ後、揚州を統一。
しかし孫策は揚州の豪族の手によって暗殺されてしまいます。
孫策は死に際に弟・孫権(そんけん)へ「揚州の事は頼んだ」と残して亡くなります。
その後孫策の跡を継いだ孫権は、周瑜(しゅうゆ)や張昭(ちょうしょう)など、
皆さんが知っている優秀な家臣に支えられながら呉を成長させていく事になりますが、
どのように呉が最後を迎える事になったのか皆さんご存知でしょうか。
今回は呉が最後どのようにして最後を迎える事になったのか、
孫権から順に最後の皇帝までの軌跡をたどって行きたいと思います。
この記事の目次
孫策の跡を継いだ青年当主
江東の小覇王として揚州の領主や豪族達を蹴散らした孫策。
彼は親友の周瑜(しゅうゆ)に軍事を任せ、
内政は江東の二張と呼ばれた張鉱(ちょうこう)と張昭に任せます。
こうして揚州の内政を整えた後、父・孫堅(そんけん)の敵である劉表を蹴散らす為、
軍事・内政にいそしんでおりましたが、揚州の豪族に暗殺されてしまいます。
孫策は亡くなる間際に弟である孫権を呼び「俺は戦においてお前に勝っているが、
お前は国を治める事においては俺に勝っている。内政をしっかりと整え、
困った時は張昭に相談せよ」と言い残しこの世を去ります。
こうして孫策の遺言に従って揚州の主として孫権は立つ事になります。
当時孫権は19歳という若さでした。
様々な人材を集める
孫権はこうして兄・孫策の跡を継いで揚州の主として立つ事になります。
彼は早速張昭と相談しながら揚州の内政を固めていくと同時に、
兄の親友であった周瑜と共に人材登用に励んでいきます。
彼は江東の名士である陸遜(りくそん)や周瑜の親友で名士として名高い魯粛(ろしゅく)、
孔明の兄で知られる諸葛瑾(しょかつきん)、
孫策時代からの側近である周泰(しゅうたい)や蔣欽(しょうきん)
など能力のある人材を集めて、採用していきます。
こうして文・武に秀でた家臣を採用すると、
適材適所に割り振っていき武将達の能力を最大限に引き上げていきます。
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孫権最大の危機:赤壁の戦い勃発
孫権は様々な人材を登用して揚州の政権を固めていきます。
しかしそんな最中、袁紹を倒して河北統一に成功した曹操率いる大軍が荊州を陥落させ、
揚州になだれ込んでくる気配を示します。
孫権は曹操と対決するかもしくは降伏するかで迷いますが、曹操と対決する道を選びます。
彼は曹操と戦う決意を固めると周瑜を総大将にして、曹操軍迎撃に向かわせます。
周瑜は智謀の限りを尽くして、曹操軍を赤壁の地において見事撃退する事に成功。
この戦いは後年「赤壁の戦い」と言われる事になります。
こうして孫権最大の危機であった赤壁を周瑜の活躍によって乗り切ります。
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孫呉事件簿その1:【名将・周瑜の早すぎる死】
孫権は赤壁の戦いが終わると、周瑜から天下二分の計を聞かされます。
天下二分の計とは、赤壁で勝利した孫権軍が荊州の江陵(こうりょう)を奪取した後、
その勢いのまま益州へ攻撃を仕掛けて占領。
益州を奪取した後は、涼州に割拠する馬騰(ばとう)や韓遂(かんすい)らと手を組んで、
曹操軍を西から攻撃を仕掛けます。
この時孫権は江陵と建業(けんぎょう)から北上して魏へ侵攻。
こうして三方向から同時進行する事で、曹操を倒してしまおうという計略でした。
孫権は周瑜からこの計略を聞くと大いに賛成し、周瑜にこの計略を積極的に行うように
指示を出します。
しかし周瑜は江陵城攻防戦において毒矢に当たってしまいそのまま亡くなってしまいます。
周瑜の早すぎる死は孫権を大いに悲しませる事になり、
孫呉の国の初期において最大の事件と言える物でしょう。
周瑜の死によって天下二分の計は崩れ去り、
劉備と同盟しながら曹操と戦う路線へと変更せざるを得ませんでした。
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劉備と孫権の荊州問題とは…
劉備は周瑜(しゅうゆ)が亡くなると軍を出陣させて益州を攻略に成功。
孫権は劉備が益州攻略を完了させたことを知るとすぐに劉備の元へ使者を送ります。
彼はなぜ劉備に使者を送ったのでしょうか。
その理由は荊州問題が原因となっております。
荊州は元々赤壁の戦いで勝利した孫権軍が南荊州を領土とする予定でした。
しかし赤壁の戦いで大した活躍をしていない劉備が孫権軍の都督であった周瑜が、
江陵城攻略に手間取っている間にちゃっかりと領土としてしまいます。
劉備のこの手の速さに怒った孫権は劉備に「誰のおかげで曹操が
撤退していったと思ってんだ。俺ら孫呉が必死になって戦ったからだ。
赤壁で戦っていない君が荊州を領土としているのはおかしくないか。」非難します。
しかし劉備はあの手この手を使って孫権の言葉をはぐらかしますが、
孫権が食らいついて劉備に詰問をし続けた結果、
「分かりました。私が益州を征伐する事に成功した時、
南荊州4郡を返還します。」と約束します。
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孫呉事件簿その2:劉備に騙される
だが劉備は孫権の使者がやってくると「あれ?そんな約束した。私は言った覚えがないのだが。」としらをきります。
孫権の使者は確かに言ったと劉備に詰め寄ると
「そうだったか。まぁ私も孫権殿も証拠がないわけだから、何とも言えないが。
そこまで執拗にいうのであれば返そうではないか。涼州を取ったらね」と返答します。
孫権の使者はとりあえず、劉備の言葉を孫権に伝えます。
すると孫権は顔を真っ赤にして「ざけんじゃねーぞ。大耳野郎」と激怒。
そして孫権は2代目都督に就任した魯粛に軍勢を与えて、
力ずくで荊州4郡を奪ってくるように指示を出します。
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2代目都督である魯粛が大活躍
魯粛は軍勢を率いて南荊州と呉の領土の国境線に陣を敷き、
蜀の荊州担当の指揮官である関羽が来るのを待ちます。
数日後関羽が到着。
魯粛が駐屯する地の正面に陣を敷き、互いににらみ合う格好となります。
魯粛は関羽が到着すると「関羽殿。ここはお互いに一対一で会見し、
話し合いで解決しませんか。」と提案。
関羽は魯粛の申し出を受け入れ、お互いに兵士を後方に下げて馬上で会見を行います。
関羽は荊州が劉備の物である事を説き、荊州領有の正当性を訴えます。
対する魯粛は赤壁の戦いから現在に至るまでの経緯を話し、
荊州は孫権が劉備に一時的に貸したものであるとの主張。
お互いの主張をぶつけ合う事数時間、関羽は魯粛の言葉を受け入れる事となり、
荊州の南4郡の内長沙(ちょうさ)と桂陽(けいよう)を孫権に引き渡すことになります。
こうして荊州問題は魯粛の弁舌により、一時的ではありますが解決。
孫権は魯粛の活躍により荊州の一部分が返還されたことを非常に喜び、彼を褒め称えます。
呪われている呉の都督の職
魯粛の活躍によって南荊州4郡の内2郡が返還される事になり、
孫権は大いに喜びますが魯粛は病にかかってしまいます。
その後魯粛の容態は回復する事無く、亡くなってしまいます。
周瑜・魯粛・そして魯粛の跡を継ぐことになる呂蒙(りょもう)といい、
孫呉の都督に就任したものは、仕事の激務からかもしくは何者かの
恨みが籠っているのかなぜか短命です。
魯粛が亡くなった事を知った孫権は大いに悲しみ、彼の葬儀には自ら出席し
大いに悲しみます。
3代目都督に「呉下の阿蒙」が就任
2代目都督である魯粛が亡くなると3代目の都督には「呉下の阿蒙」で有名な呂蒙が就任。
彼は元々血の気が多い武将でしたが、孫権に
「呂蒙。君はいつか兵士を立場になるのだから勉強に励みなさい。」と説教されます。
呂蒙は孫権に言われて猛勉強を行い魯粛が数か月ぶりに呂蒙に会った際、
色々と質問を行います。
すると彼は魯粛の質問にしっかりと答えます。
魯粛はびっくりして「いったいどうしたというのだ。呂蒙。」と尋ねます。
すると呂蒙は孫権に怒られてから猛勉強を行った事を伝えた後、
「男子3日会わざれば括目してみるべし」とドヤ顔で魯粛へ伝えます。
魯粛は大いに満足し「これからも勉学に励め」と激励。
この呂蒙が3代目都督に就任し、孫呉のトップとして活躍していく事になりますが、
彼は病魔に侵されており、健康面で不安が残っておりました。
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宿願である合肥攻略へ向かう
孫権が最初に合肥(がっぴ)へ攻撃を仕掛けたのは赤壁(せきへき)の戦いの終了後です。
彼は合肥へ攻撃を仕掛けますが城内の守りが固い事や赤壁で敗北して
兵力が無いはずの曹操軍が援軍に向かっているとの情報があった為、すぐに退却を開始します。
孫権の執念といえる合肥攻略はここから始まっていく事になります。
劉備との間に起きた荊州問題が一応の解決を見終わった事を認めた孫権は、
再び合肥攻撃へ出陣するべく準備を行います。
孫呉事件簿その3:第二回合肥攻撃作戦が大失敗に終わる
孫権は合肥攻略軍の編成が終わると、10万の兵力を率いて合肥へ出陣。
迎え撃つ合肥守備軍である曹操軍は楽進(がくしん)・李典(りてん)・張遼(ちょうりょう)
が7千の兵力で籠城しておりました。
この7千に対して孫権軍10万の軍勢で襲い掛ける為、
孫権は楽勝で勝てると思っておりました。
いざ合戦が開始されると孫権の予想を裏切る事になります。
まず孫権軍が合肥城へ攻撃をかける前に、張遼率いる曹操軍が夜襲を仕掛けてきます。
この夜襲で孫権軍の兵の士気は低下し、
孫権も一時的に張遼に追いつめられる事になりますが張遼軍を撃退する事に成功します。
その後孫権は陣の再編を行った後で、合肥へ猛攻を開始。
この猛攻を曹操軍の兵士はじっと耐え孫権軍が撤退を開始し始めると、
張遼率いる曹操軍は合肥の城門を開け放って孫権軍に対して追撃を開始。
張遼軍の追撃で孫権はあやうく命を落としそうになりますが、
配下の諸将が命を張って孫権を守った事で、
何とか追撃をかわして命からがら逃げだすことに成功。
こうして第二回合肥攻撃は大失敗に終わってしまいます。
曹操に臣従する
孫権は濡須(じゅす)の戦いで曹操軍を撃破した際に、曹操へ臣従する形を取ります。
彼は曹操に臣従する形を取る事で曹操からの攻撃を避けて内政を充実させる狙いと
軍に力を蓄えさせて、曹魏に油断が生じた際にいつでも攻撃を行えるようにするため
魏へ臣従する形を取ります。
その後孫権は魏へ侵攻する事無く、呉の領土に近い山越(さんえつ)などの
異民族討伐に専念しながら、揚州の内政を充実させて軍備を蓄えていく事になります。
劉備との同盟破棄
孫権は曹操に臣従する事で軍備拡充と異民族討伐を精力的に行っていきます。
そんな中、孫呉最大のチャンスが訪れていきます。
そのチャンスとは劉備に貸していた荊州の守備隊を率いて、
関羽が曹魏の領土となっている荊州へ攻撃をしかけた事です。
孫権はこの報告を聞くと「チャンスがやって来たぜ」と大いにガッツポーズをしますが、
劉備との同盟破棄を行い、荊州を奪取するにはもう少し状況を確認してからではないと
行動できないと感じ様子を見ます。
関羽は軍を北上させると荊州のほとんどを占領する事に成功し、
曹操軍の荊州の領地は樊城(はんじょう)を残すのみとなっておりました。
また樊城を救出すべく援軍にきた于禁(うきん)・龐徳(ほうとく)らの曹操軍も
関羽軍に降伏するありさまでした。
魏が危機的状況に達している現状を見て、孫権は劉備との同盟を破棄して
荊州(けいしゅう)四郡を奪うか、それとも蜀の攻撃に呼応して合肥攻略に着手するか、
大いに迷い始めます。
迷いに迷った末に彼が出した決断は、劉備との同盟を破棄して、
呂蒙(りょもう)に命じて荊州攻略へ向かうように指示を出し、
魏へ降伏する使者を発します。
こうして呂蒙率いる呉軍は荊州四郡をすべて奪う事に成功し、
関羽を処断する事に成功しますが、三代目都督である呂蒙(りょもう)や孫皎(そんこう)など
孫家の次世代を担う人材を失ってしまう事になります。
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