エクスペンダブルズとは、消耗品を意味しています。まさか、呉の重鎮である甘寧(かんねい)が消耗品であるわけはない!甘寧ファンがそう思いたい気持ちが分りますが、実は甘寧は巷で持ちあげられる程、孫権(そんけん)に信任されているわけではありません。今回のはじめての三国志では、甘寧が事実はエクスペンダブルズであり、それ故に、ストレスから料理人を斬ってしまったという説を紹介します。
この記事の目次
甘寧が死んだ時の孫権の冷淡さ・・
孫権という人は、孔明とは対照的にお気に入りが死んだ時の感情がストレートに出る人物です。呂蒙(りょもう)が病床に伏せば、薬を届け、ストレスを与えないように、壁に穴を空けてそっと見守り、濡須の戦いで瀕死の重傷を負った凌統(りょうとう)には涙を流しながら自ら薬を塗ります。
張昭(ちょうしょう)が死んだ時には、君主でありながら平服で弔問に訪れていますし、自分の守役だった周泰(しゅうたい)が、徐盛(じょせい)ら古参に侮られると、酒の席で周泰の衣服を脱がせて、その傷だらけの体の傷の一つ一つを説明している程です。そして、お気に入りが死去すると必ず、その子孫に軍勢を継がせて、お前も父と同じように信任しているよとメッセージを与えるのが常でした。
甘寧の息子は甘寧の軍勢を継げなかった・・
ところが、孫権は甘寧が死んだ時には、痛惜したとあるだけで息子の甘瓌(かんかい)には軍を継がせず、潘璋(はんしょう)の部曲に組み込ませているだけです。さらに輝かしい功積を残した甘寧の息子は、間も無く罪を犯し特に赦免される事もなく、病死しています。
どうして、孫権は甘寧に冷たいのか?それは、甘寧の前半生を見てみると、まあ、無理からぬ事ではあるのです。
蜀を乗っ取ろうとして失敗、流浪の人生を送る甘寧
甘寧は巴郡の人で、つまり蜀のエリアで生まれています。生没年は不詳ですが、履歴から見ると、曹操(そうそう)達と同期で、若い頃から乱暴者同じく不良少年を集めては着飾ったファッションで男伊達を気取り、一端の任侠として有名でした。20年程も暴れ回ると、甘寧は急に悟りを得たように学問をしますが、40歳に差し掛かる頃に、益州牧の劉焉(りゅうえん)が死去、その混乱に乗じて、長安の李傕(りかく)・郭汜(かくし)と組んで蜀を乗っ取ろうとして劉璋(りゅうしょう)に敗れ失敗したと王粲(おうさん)の英雄記の記述にはあります。
後に甘寧は、孫権の配下になると、唐突に益州を取りましょうと未練がましい事を言っているので、一度クーデターを起こしてしくじったという英雄記の記述は信憑性が高いとおもいます。
その後、荊州の劉表(りゅうひょう)を頼るも、粗暴な人柄を見透かされ用いられず、長江を下って孫策(そんさく)に仕えようと考えても、その途中を黄祖(こうそ)が支配していて通過できず、やむなく黄祖の配下になりました。
どうでしょう?孫権としては、粗暴な任侠の親分が、クーデターに失敗して黄祖の陣営に落ちたのが甘寧です。確かに戦争では天下無敵かも知れませんが、心から信じるわけにはいかないなにしろアイツは一度、国の混乱に付け込んで、それを乗っ取ろうとして失敗した前科があるしな!と思ったのではないでしょうか?
孫権の冷淡な甘寧の扱い1 救援要請があるまで夷陵城に放置プレイ
甘寧の放置プレイが見られるのは、赤壁の戦いの後です。曹操が鄴に逃げ去った後、曹仁(そうじん)は南郡で踏みとどまり、そこに周瑜(しゅうゆ)が攻撃を掛けます。その時、甘寧は自分の兵士を夷陵城に振り向けてこちらを陥落させてしまうのです。周瑜伝では、この計画は周瑜も了承しているようですが、前後を見ていると周瑜はとても甘寧程度の兵力では夷陵は抜けないと思っていたようです。夷陵陥落に気がついた曹仁は、六千名という軍勢で夷陵城を包囲します。一方の甘寧の兵は募兵しても千名足らず、それでも甘寧は余裕の表情で籠城しますが、さすがに守りきれないと考え周瑜に救援要請を出します。
甘寧から救援要請を受けた周瑜は、そこでまさかの夷陵城陥落の報告を知り、大いに慌て、なんと、まだ校尉ですら無い凌統(りょうとう)を背後に残して、周瑜と程普(ていふ)の主力で甘寧救出に向かっています。その理由は、夷陵城が戦略上の要衝だったからで、「甘寧デカした儲けモノ!救ってやるから城を死守しろよ」という事でした。
もし、甘寧が夷陵城を落せず包囲したままだったら、周瑜がわざわざ救援に赴いたかどうか怪しいモノです。
孫権の冷淡な甘寧の扱い2 六十歳過ぎても鉄砲玉扱い
甘寧と言えば、魏の朱光(しゅこう)が守る皖(かん)城をまたたく間に陥落させて、呉の喉元の棘を引き抜いて、合肥の戦いの切っ掛けを造っています。その一番乗りを見ると、甘寧の勇猛さは、さぞかし孫権に信頼されていたかのように見えます。
しかし、よく考えてみると、皖城の戦いの時の甘寧は六十歳の老人武将です。その甘寧が、もっとも死ぬ確率が高い、城壁よじのぼり部隊を率い、あまつさえ、自身が練り絹(ロープ替わり)を掴んで壁をよじ登るというのは鉄砲玉扱いにも程があります。
ここまで手柄を立てていれば、いい加減、前線からは少し離れるのが普通です。ところが、甘寧は、ほぼ死ぬまで前線に立ち続けています。さらに、皖城で命がけの手柄を立てながら、甘寧の功積は呂蒙に次ぐのです。後方にいて督戦していた呂蒙より甘寧の功積は落ちるというのです。トドメを刺すようですが、呂蒙は戦争に出なければ、貧しい暮らしから抜けだせないような貧家の出身で、おまけに甘寧より二十は年下です。身分では、甘寧と差が無く、おまけに年下の呂蒙の配下として甘寧は甘んじていたのです。これは甘寧のプライドから考えると、相当な屈辱ではないのでしょうか?
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