西暦219年、曹操(そうそう)から王位を引き継いだ曹丕(そうひ)は、
それだけでは満足せず曹操が、最期まで手を付けなかった
皇帝の位へのあくなき執念を見せます。
もっとも、曹操は、皇帝の位を想定していなかったのではなく、
「自分は漢の禄を食んだのだから、皇帝の位までは望まない」
と漢の臣であった事を理由にして、帝位までは奪わなかっただけでした。
しかし、曹丕が皇帝の位を奪うと言っても、それは献帝(けんてい)に、
「おら帝位を寄こせ」と言って成立するものではありません。
前回記事:108話:三国志を牽引した風雲児曹操、志半ばで死ぬ
曹丕はどうやって献帝から帝位を譲ってもらったの?
曹丕は、「あくまでも献帝が自ら帝位を自分に譲るというから、
仕方なく皇位に就く」という儀式を強制しました。
いわゆる禅譲という方式で、これにより献帝は、何度も、
曹丕に譲位を願い出ては、曹丕に「とんでもございません」と
拒否されるという、手間ヒマが掛かる茶番を繰り返す事になります。
献帝:「帝位を奪うなら、早く奪え、どこまで曹丕は朕に恥をかかすのか」
献帝は、おそらくこのような不満を抱えながら、18回を数えた
禅譲の茶番劇に付き合う羽目になりました。
しかし、ここでも、漢室の誇りを貫いた女性がいました。
それは意外にも、献帝の皇后であった献穆曹(けんぼくそう)皇后です。
献穆曹皇后と献帝の複雑な出会い
献帝の前の皇后の伏皇后は、父、伏完が曹操暗殺を図った事で、
連座して罪に問われ、献帝の目の前で殺されました。
曹操は、その後、自分の娘である曹節(そうせつ)を献帝に嫁がせて、
献穆曹皇后と名乗らせていたのです。
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献穆曹皇后(曹節)は兄・曹丕に抵抗した
政略結婚であった筈ですが、曹皇后は誇り高い女性であり、
後漢の皇后の立場を優先して、献帝から皇帝の位を取り上げようとする
兄、曹丕に抵抗しました。
曹皇后は、兄である曹丕が、何度も使者を立て玉璽を取り上げようと
した時にも、しっかりと玉璽を握りしめて使者を詰り、
玉璽を渡そうとはしないで頑張りました。
ですが、ここは魏の領域のド真ん中、献帝の家臣とて、
もう曹丕に逆らう意気地は微塵もありません。
そのようなやり取りが数度続いた結果、曹皇后は疲れ果ててしまいました。
「私がこのまま意地を張り続けたら、兄は、私にも帝にも容赦はしますまい」
曹皇后は、そう言って使者に玉璽を投げつけて渡し、
「ああ、私達は天に祝福されていないのか・・」と嘆き悲しみました。
この時、その場にいた家臣達は、余りの恥ずかしさに顔を上げる事も
出来なかったと記録されています。
後漢時代が遂に終わる
献帝は皇帝の位を追われて、山陽公に格下げになりました。
西暦220年、これを持って、後漢の200年以上の歴史に終止符が
打たれる事になりました。
曹丕はここに初代皇帝に即位し、魏の文帝になります。
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曹丕は本当に献帝を暗殺したの?
三国志演義では、献帝はこの後、新しい任地に赴く途中で、
曹丕の放った刺客に殺された事になっていますが、
これは、後に皇帝を名乗る劉備へ繋げる為の伏線であり、
実際は、その後も生き続け、西暦234年に死去しました。
曹皇后は、献帝の死後も生き、西暦260年、曹氏の天下が
司馬氏に奪われるのを見つつ、亡くなりました。
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