袁紹軍の二枚看板、顔良と文醜。猛将として知られるこの二人は白馬・延津の戦いで戦死。袁紹軍は出鼻を挫かれ、籠城戦である官渡の戦いへと移行していきます。
また、三国志演義では、顔良と文醜は二人とも関羽に斬られた事になっていて、関羽の知名度を上げるのに大きく貢献していました。ところが、この顔良と文醜、史実ではどこから来たか全く不明な馬の骨なのです。
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この記事の目次
孔融の発言で存在が確認できる顔良と文醜
三国志演義では、すでに汜水関の攻防で名前が出てくる顔良と文醜ですが、史実でその名前が確認できるのは、ずーっと後で正史三国志荀彧伝です。
西暦198年、曹操がいよいよ袁紹と事を構える事を決意した時、孔融は「袁紹軍には、三軍に冠する武勇轟く顔良と文醜の両名がいるので、打ち破るのは困難ではないか?」と開戦に慎重論を述べています。
これに対して、荀彧は、「顔良も文醜も、ただ強いというだけで匹夫の雄に過ぎない」と切り捨て袁紹と事を構える事を勧めています。いずれにせよ、顔良と文醜の名前が初めて正史に出てくるのは、この部分なのです。
kawausoは、それ以前に顔良と文醜についての記述がないか調べてみましたが、どこにもありません。それなのに、初登場の時点で、いきなり袁紹の三軍筆頭という大出世を遂げているというのは、不思議な話ではあります。
鳴り物入りで出てきてすぐに死んでしまう顔良と文醜
そんな顔良と文醜、袁紹軍の三軍筆頭という地位ながら、ハッキリわかる活躍の場は、官渡の前哨戦である白馬・延津の戦いだけです。理由は、この戦いで二人とも戦死してしまうからです。
袁紹は顔良を大将として、郭図・淳于瓊と共に白馬を守る劉延の砦を包囲させ、自身は黎陽に布陣して黄河を渡河する構えを見せました。その陣容は歩兵10万人に騎兵1万という陣容だったそうです。曹操は兵力で圧倒的に不利であったので、荀攸の計略に従って軍を二手に分け、于禁と楽進を西から渡河させ袁紹本隊の背後を窺いつつ、張遼と関羽に軽騎兵を率いさせて普段の倍速で白馬に向かいます。
この陽動作戦に引っ掛かった袁紹は、于禁と楽進に対応すべく軍を二手に分けました。これにより白馬の顔良軍が手薄になった所に、張遼と関羽の騎兵が殺到。劣勢の顔良は慌てて迎え撃ちますが、混戦の中で関羽に斬られています。(関羽伝)
この時、顔良は騎馬ではなく馬車に乗っていた事が記録に出てきます。白馬の戦いは、これで決着が着いた事から顔良が大将であった事は間違いなさそうです。
次に曹操は、白馬から引き揚げ黄河に沿って西へ移動します。顔良を討たれて士気が低下した袁紹はそれを追って黄河を渡り、南岸の延津に到達してにらみ合いになります。袁紹はここで、文醜に対し当時客将となっていた劉備とともに6千の軍勢で曹操を追撃させました。
南阪の下に駐屯していた曹操は、騎兵が主体になっている文醜と劉備の軍勢に対し荀攸の計略に従い、輜重部隊を囮に使いました。文醜の騎兵は、一部が囮の輜重部隊を襲うのに夢中になり、陣形が乱れます。曹操はこのチャンスを逃さずに、600の騎兵で突撃し、文醜と劉備の軍を撃破しました。
文醜は戦死し、白馬・延津の前哨戦は全て曹操の勝利で終ります。正史によると顔良と文醜は、どちらも袁紹軍の名将であり二人が悉く失われた事で、袁紹軍は震撼したと書かれています。
顔良は漢民族・文醜は遊牧民ではないか?
これまでの記述は、非常に奇妙です。その戦死が袁紹軍を震撼させる程影響力がある顔良と文醜ですが、白馬・延津以前に記録がないのです。もし叩き上げの将軍なら、それまでに名前位は出て来そうなものです。そうではないという事は、袁紹軍に加入した時期がかなり遅く、最初から相応の軍勢を率いて加入し、同時に伝が残るような家柄ではなく、実力で上ってきた魏延のような家柄の可能性があります。
顔良については、馬車で指揮をしている時に、関羽に斬られた事から出自は漢民族で騎馬は得意ではなく、部曲を率いて袁紹軍に参加した可能性が考えられます。もう一人の文醜ですが、彼の部隊は騎兵が主体である事が史料から読み取れます。また曹操は文醜の軍勢の列を乱す為に輜重を囮にしていますが、その前に自軍の騎兵に馬の鞍を解かせて、野に放っているのです。
これと同様な事を、潼関の戦いで曹操が馬超に急襲された時に、典軍校尉丁斐が行っています。つまり、遊牧騎馬民族が牛や馬に目が無い事を知っていて、牛馬を放つ事で曹操から注意を逸らさせているわけです。ここから見ると、文醜が率いていた騎兵は遊牧民の騎兵であり、その指揮官である文醜も遊牧民の将軍か、そうでなければ麹義のように漢民族で遊牧民の戦法を学んだ人物でしょう。
袁紹は、公孫瓚に殺害された劉虞の弔い合戦を標榜した経緯から、劉虞が優遇した烏桓や鮮卑族との関係が良好で、公孫瓚戦では多くの異民族が袁紹に与していますから、文醜もまた、そんな異民族将軍の一人であったと推測できるのです。
二人はいつ頃、袁紹軍に入ったのか?
では、顔良と文醜はいつ頃、袁紹軍に加入したのでしょうか?
正史において、初めて名前が出るのが198年、それも孔融や荀彧の言葉によって知られる点を見ると、三国志演義のように汜水関の戦いの頃から袁紹軍に在籍していたとは考えにくいです。
そうなると、袁紹が韓馥を脅して冀州牧を譲り受け大幅に兵力を増やした時期が考えられますが、それは西暦191年の事であり、幾らなんでも、この時に名前が出ていたなら、もう少し前から名前が知られていそうな気がします。
そこで、kawausoとしては、劉虞の旧臣、鮮于輔、斉周、鮮于銀が恨みに報いようとし、燕人閻柔を烏丸司馬に任じて烏丸・鮮卑族を味方に引き入れて、胡族と漢兵の数万人を得て、袁紹軍と合流した記述がある西暦193年が、顔良と文醜の加入時期ではないかと推測します。
顔良と文醜が加入した頃の袁紹軍は、麹義が権勢を振るっていたので、名前が出てきませんが、麹義が易京で公孫瓚に敗れ、また傲慢な振る舞いのせいで袁紹に疎まれて殺害されたせいで、繰り上がる形で顔良と文醜が浮上してきたのではないかと推測します。麹義が殺害された頃は、196年から198年頃とされているので、後釜として顔良・文醜が台頭したとすれば、自然ではないでしょうか?
三国志ライターkawausoの独り言
三国志演義の影響で、かなり知名度が高い顔良と文醜ですが、正史においては二人が戦死する白馬・延津の戦いまで、ほとんど無名な大将という奇妙な存在です。二人がどんな経緯で袁紹の配下になったのか?興味は尽きません。
参考文献:正史三国志
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