田横(でんおう)は楚漢戦争末期に斉の国の王様になった人物です。
当時天下を二分していた劉邦(りゅうほう)と項羽(こうう)の両政府に
なびかない諸侯がいない中、
田横(でんおう)だけはどちらの味方もせず不撓不屈の精神で正義を模索した王様です。
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この記事の目次
兄に誘われて一緒に独立を助ける
秦の始皇帝の死後、天下は麻のごとく乱れました。
田横(でんおう)は兄田栄に誘われ、斉の国(戦国七雄の国)王の子孫であった
従兄弟の田儋(でんたん)を王として盛り立てる為に協力します。
秦の国から派遣されてきた官吏を謀殺し、田儋は斉王として立ちます。
兄田栄は宰相に任命され、田横も将軍に就き抵抗を続ける斉の各城を平定するため出陣します。
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魏から救援要請により田儋と兄田栄は出陣
秦の章邯(しょうかん)軍に包囲されている魏から救援要請があり、
田儋(でんだん)と兄田栄は出陣します。
しかし田儋は章邯軍の夜襲に敗れ討ち死にしてしまう。
共に出陣していた田栄は退却に成功しますが、退却先の東阿で秦軍に包囲され瀕死寸前でした。
しかし、項羽の叔父である項梁軍が東阿を包囲していた軍勢を撃破することで
田栄は窮状を脱することができました。
この危急の時に田横は何処にいたのか史書には記されていません。
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宰相田横
田儋の死を知った田栄は田儋の息子田市を王に就かせ、
兄田栄と共に田横も斉の国を安定させるため内政に励みます。
秦の将軍章邯を降伏させ、秦の首都を焼き払い天下の主催者となった項羽は論功行賞を行い、
斉の国に新たな王を派遣することが決まりました。
斉王田市は、項羽に恐怖し田栄と田横に左遷地へ移ることを提案します。
この提案に田栄は激怒。
言葉を尽くして説得をしますが、田市は聞かず左遷地へさっさと移ってしまいます。
田栄は田市を再び説得するため、跡を追って行きます。
田横は項羽から派遣されてきた新王の軍勢を斉の首都臨淄(りんし)で撃破します。
一方田栄は、自分の進言を聞き入れない田市を殺害し、
派遣されてきた王の残党軍を打ち破り臨淄に帰還します。
その後兄田栄は斉王になり、田横は宰相となり、斉国の軍事・政治・外交すべてが任せられます。
派遣した王の軍勢が破れたことを知った項羽は自ら軍勢を率いて、斉に侵攻を開始します。
斉王田栄と宰相田横は項羽の軍勢を追い払うため出陣します。
圧倒的な強さを誇る項羽軍になすすべもなく敗れる
田栄と田横の兄弟は力戦しますが、圧倒的な強さを誇る項羽軍になすすべもなく敗れてしまいます。
斉軍を破った項羽は戦に関係のない民衆を殺害し、
斉の国々を焼き払い二度と自分に逆らわないように徹底した破壊と殺戮を行います。
敗れた田栄は趙の国に近い平原県に逃げますが、項羽を恐れた民衆に斬られ項羽に臣従します。
斉の民衆は、項羽の破壊と殺戮に恐怖を持ちながらも反感を覚えた人々は、
城陽(じょうよう)で田横が生きていることを知り、続々と田横の元に集結して挙兵します。
項羽は斉の首都臨淄で田横が挙兵した事を知り、
すぐさま田横を討伐すべく軍勢を城陽に出陣します。
その後両雄は城陽で幾度となく戦いますが、
項羽は士気旺盛な田横軍を破ることができないまま斉の地を後にするのです。
国力回復に勤しむ宰相田横
項羽が斉の地から去った後、兄田栄の息子田広を斉王に擁立し、
田横は宰相として破壊されボロボロとなった斉の地を復興すべく奮闘します。
まず生産力を向上させるため農地開発を行い、領民からの徴税を減少させるなどの政策を行います。
また国境の防備を固めるため、ボロボロになった城を改修し、
外敵が容易に侵入しないよう防備を厚くします。
この政策のおかげで徐々に国力は回復して宰相田横は民衆から慕われていきます。
騙し打ちにされた斉の国
中国は二分され、西の劉邦(りゅうほう)と東の項羽(こうう)が
天下統一をかけた熾烈な戦いを行っていました。
斉の地は平穏でしたが、天下の覇権を決めるこの戦いから逃れることはできませんでした。
圧倒的な強さを誇る項羽軍に度々敗れ劣勢を感じていた劉邦は
弁士・酈食其(れきいき)に斉を味方につけるよう命じ、斉の国へ派遣します。
田横と田栄の息子である新斉王田広は酈食其を迎えます。
酈食其は劉邦に味方するよう田横と田広に説きます。
田横は劉邦軍との戦いを避け、斉国の国力を回復させることに注力する為、
劉邦に味方すると決心し、酈食其に伝えます。
斉漢同盟が成立するが・・・
ここに斉漢同盟が成立します。
田横は同盟成立のため、国境を守る重要な城歴城の防備についていた兵士を解散させます。
劉邦に命じられ趙の国を攻略していた韓信(かんしん)は、斉の国を攻略すべく進軍していた。
斉に行軍していた韓信軍に酈食其が斉漢同盟を締結させたことを知り、進軍を停止させます。
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韓信の食客・蒯通(かいつう)が、斉を占領せよと提案
しかし韓信の食客であった蒯通(かいつう)が「漢主劉邦様から攻略の中断命令が出ていません。
その為進軍し斉を占領してしまいましょう。」と進言します。
韓信は蒯通の進言を採用して、斉の国境を守る歴城を易々と陥落させます。
韓信軍は斉軍に迎撃の暇を与えず、次々と斉の諸城を陥落させます。
田広は激怒し項羽軍に援軍要請、韓信軍と決戦
この事実が知らされた田広は激怒し、漢の使者酈食其を煮殺した後、
高密城(こうみつじょう)に逃れます。
田横は怒りに身を震わせますが、城陽に逃れた後、かつて親交のあった彭越の元に身を寄せます。
田広はその後項羽に援軍を仰ぎ、
楚軍と共同して高密城付近で韓信軍と決戦を行いますが敗北し、田広は捕斬されてしまいます。
彭越の元に身を寄せていた田横の元に田広捕斬の報が伝えられます。
不撓不屈の王・田横
田広捕斬の報を聞いた田横は彭越の元をあとにし、斉の地に戻り田横は斉王に就きます。
田横は各地で抵抗を続ける斉の諸将や斉の住民など500人を引き連れ、孤島へ移り住みます。
一方天下の覇権を決する熾烈な戦いを続けていた項羽と劉邦は、
ついに劉邦が垓下で項羽を破り、長きにわたる戦いに終止符が打たれます。
劉邦は国号を「漢」に定めた後、孤島に移り住んだ田横に上洛の使者を派遣します。
田横は一度断りますが、再び漢の使者が来島したことで上洛を決心し、
数人の食客と共に漢の都洛陽に上ります。
洛陽直前で田横は「以前劉邦と私は共に王であったにもかかわらず、
彼の元で仕えるのは大変忍び難い。
また劉邦が私を上洛させるのは我の顔が見たいだけであろう。
その為、我はここで首を斬り、あなた達は急いで洛陽に行けば、
我の顔は腐らず劉邦に見せることができるであろう」と食客に告げ、自ら首を切り落とします。
その後、食客は劉邦に謁見し田横の言葉を伝えるとともに田横の首を見せます。
田横の首を見た劉邦が取った行動
劉邦は伝え聞いた田横の言葉と首を見て涙を流し、
斉の国で立ち上がった田儋・田栄・田横の3人を褒め称え、田横を王として葬儀を行います。
また劉邦は食客を都尉に任命するのです。
しかし食客は葬儀が終わった後、田横の墓の前で自害し、
島に残った住民500人も田横の死を知り、田横を慕った島民500人は全員が自害するのでした。
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三国志ライター黒田廉の独り言
破壊と殺戮を行った項羽や斉の国を掠め取った劉邦の二大勢力に屈することなく、
戦い続けた田横は不撓不屈の王に相応しいと思います。
また君主を慕って500人もの人間が自害する壮絶な死は中国史でも珍しい事だと思います。
この不撓不屈の王田横の最後が三国志で引用されていますのでご紹介します。
曹操軍に追われ江夏に逃げ込んだ劉備軍は呉の孫権と同盟を結ぶため諸葛孔明を派遣します。
呉に到着した孔明は孫権から「劉備はなぜ曹操に抗うのか」と質問されます。
孔明は「斉の田横は義を守って屈辱を受けることを拒み自刎しました。
我が主劉備は漢の末裔であるのになぜ屈辱を受け曹操の元で仕えることができましょうや」
と答えています。
その後は、皆さんが知っている通り劉孫同盟は締結され、
赤壁の地で曹操軍を破った事で劉備は飛翔する事が出来ました。
田横の壮挙はこうして後世にも残り、語り継がれているのです。
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