今回ははっきり言って、筆者の妄想過多になります。
人材の登用は当主において不可欠、寧ろ優秀な人材をどれだけ多く自分の下に置いておけるか、それは三国時代に置いても変わらなかったでしょう。
しかしそんな状況下でも全ての人物と上手くやれる、いけ好かない人物とでも上手くやれるかどうかはまた別問題。
今回はそこを踏まえつつ、孫権とその兄、孫策との関係も考えてみたいと思います。繰り返しますが筆者の妄想成分過多です、お気を付け下さいませ。
張昭
まずはこの人物をご紹介しておかなければなりません。張昭は孫策の、そして孫権に仕えた人物です。彼は若い頃から優秀であり、それを聞いた朝廷が出仕を望むも断り、徐州の陶謙の招聘も断って陶謙から軟禁されたことがあります。
そんな彼が選んだ主は小覇王、孫策。孫策は張昭を重く用い、内政だけでなく軍事に置いて、様々なことを任せて信頼しました。
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孫策、没す
しかしそんな孫策は凶刃に倒れることになります。死に伏した孫策は張昭、周瑜を呼んで弟、孫権のことを頼みました。
「弟に君主の器が無き場合、貴公が政務を取ってくれ」
まるでどこかの国の皇帝が崩御した際を思わせる一言ですが、それを受けた張昭はその後は孫権を補佐します。この後に孫権の母が亡くなる際にも張昭は夫人に孫権を深く託され、その任に応えるべく一層努めるのでした。
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その関係
さてそんな張昭と孫権ですが、両者の間には決して仲が良いとは言い難いような話ばかり残されています。
赤壁の戦いの前に降伏を勧めた張昭に対して、戦いの後に孫権は
「貴方の言うことを聞いたら今頃私は乞食だったな」と意地悪いお言葉を放って、これに恥じた張昭は引退。赤壁の戦いは終わってみれば勝てたものの、当時はどうなるかなど分かってはいません。
曹操に刃向かえば孫権の命がないかもしれないので、それを踏まえれば張昭が降伏を勧めたのは間違いでもないのです。ちょっとこれは呉王様、意地が悪いと言えなくはないでしょうか?
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その後
ここで引退を申し出たものの、その後も張昭は何度か孫権に意見をしていたようです。苦言とも言うかもしれません。その中には孫権に意見が聞き入れられず、閉じこもる張昭。張昭の言う通りだったので詫びる孫権。
出てこない張昭。孫権、なら出てくんじゃねーよとばかりに家の周りに土の壁を作らせる。張昭も張昭で中から壁を作る。怒り心頭の孫権火を放つ。張昭そのまま焼き殺されようとするので孫権慌てて火を消す……と、いうとんでもない話も残っています。
ここまでになるなんて相当相性が悪かったんだな、と思うかもしれませんが、実はそうでもあったりなかったり。
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硬骨漢好き
意志が強く、権力に屈さずに、例え上の人物であっても臆さず自分の意見を物申す人物を硬骨漢と言います。
この時代に分かりやすく言えば、鄧芝とか潘シュンとかがそう言われますが、張昭もある意味そういった人物ですね。
そして孫権は潘濬のような硬骨漢を気に入って良く用いました。
孫権はこういった、物怖じせずに直に言ってくるようなタイプに好感を抱くのです。その割に張昭との相性は最悪とも言えますよね。そしてここに、実は兄・孫策との関係を考えてみたのです。
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