呉の名将呂蒙の最大の貢献と言えば関羽を討ったことでしょうか。
そのせいで「三国志演義」などの創作物では悪役を任されることが多いのも呂蒙です。
そんな呂蒙が亡くなったとき、主君である孫権はどのような反応をしたのでしょうか?
また、「三国志演義」や「人形劇三国志」での壮絶な死に際も特徴的です。今回の記事ではそんな呂蒙の人生と死に際について探っていきます。
この記事の目次
呂蒙とは?
呂蒙は貧しい家に生まれ、孫策軍の武将である姉の夫(鄧当)の元に身を寄せていました。そんな時、鄧当は孫策軍に異民族討伐のために従軍することになります。
呂蒙はそれに勝手についていき、それをとがめた母に「貧しさから抜け出したいのです、虎穴を探らずしてどうして虎児を得ることが出来ましょうか。」と説得し、孫策軍に従軍しました。
その後は馬鹿にしてきた人を斬ったり、粗暴な面も見せましたが、孫策に才能をみとめられ、軍で出世していくことになります。
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「呉下の阿蒙」と「男子3日会わざれば括目して見よ」
呂蒙は武については才能を発揮しましたが、無学でした。その為「呉下の阿蒙」と馬鹿にされていました。これは「呉の町の蒙ちゃん」という意味で、子供扱いされていたのです。
そんなある日、呂蒙は孫権から、「学問もした方が良い」と勧められ一念発起し、懸命に勉学に励み、ついにはプロの学者も驚くほどの学識を身に着けたといいます。
その噂を聞いた呉の同僚「魯粛」が呂蒙の元を訪ね、関羽への対策について議論をしました。呂蒙は魯粛に関羽に対するいくつかの策を提案し、魯粛はその策の素晴らしさに舌を巻いたといいます。
そして魯粛は、「もう、呉下の阿蒙とは呼べないな」と呂蒙を絶賛しました。
呂蒙はそれに対し、「士は3日もすれば全くの別人になるかもしれないから、よく見ておくように」とのべました。これが後の、「男子3日会わざれば括目して見よ」という故事成語の元になりました。
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呂蒙、病に倒れる
のちに呂蒙は関羽と対峙することになります。そこで呂蒙は病気になったふりをしたり、関羽の領民や部下を手厚くもてなすなどしました。
関羽は油断し、関羽の部下も戦意を喪失しました。そして見事に関羽を捕え、斬ることに成功したのです。孫権はそんな呂蒙を称えましたが、呂蒙は直ぐに病に倒れてしまいます。
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孫権、呂蒙を大いに心配する
孫権は病にたおれた呂蒙を自身の宮殿に引き取り、八方手を尽くして看護にあたりました。また、領内に「呂蒙を直すことが出来たものには賞金を出す」とまでお触れを出しました。鍼を刺す時は孫権も一緒に心を痛め、何度も顔色をうかがおうとしました。
しかし、呂蒙に気を遣わせてはならぬと思い、壁に穴をあけて呂蒙を覗いていたといいます。孫権は呂蒙の病気が少しでも良くなると喜び、悪くなると夜も寝つけないほどでした。
後に呂蒙の病気が悪化し、孫権は全国の道士に呂蒙の延命を願わせました。しかし、その甲斐なく、呂蒙は42歳の若さで亡くなりました。
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呂蒙の死後
呂蒙が亡くなると孫権は憔悴したといいます。呂蒙は遺言で、孫権から与えられたものは全て蔵に収めておき、自分の死後は返却するように、葬儀は質素にするように伝えていました。それを聞いて孫権はますます悲しみました。呂蒙の死後は息子の呂覇が跡を継ぎましたが早くに亡くなり、呂蒙の兄が跡を継ぎました。
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