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これなら誰でも騙される!越王句践の凄まじいゴマすりを紹介。

2015年12月6日


 

越王句践

 

春秋戦国時代の末、南方の呉と越は覇権を争い幾度も戦いを繰り返していました。

越王の句践(こうせん)は、呉王の闔閭(こうりょ)を首尾よく戦死させますが

復讐に燃える闔閭の息子の夫差(ふさ)により撃破され、捕えられます。

ですが、ここから助かる為の句践の人並み外れたゴマすりが炸裂します。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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暗君だが、父の遺言に奮いたつ夫差

 

 

夫差の父である闔閭は、越の王である允常(いんじょう)が死んで句践が

即位すると、出鼻を挫こうと出撃します。

しかし、句践には軍師の范蠡(はんれい)がおり呉軍の前で200名の罪人に

お互いの首を刎ねさせるという奇策を行い、士気が低下した呉軍を撃破します。

、闔閭は退却しますが、途中に敵の矢が足に刺さり、

これが破傷風を起して帰国後、間もなく死にました。

 

死を悟った闔閭は、息子の夫差を呼び寄せて

「必ず自分の仇を討つように」と遺言して亡くなります。

 

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薪(まき)の上に寝て復讐を誓った夫差

 

 

夫差は、暗愚な人物でしたが、父の無念の死に目が醒めたのか、

或いは、名宰相、伍子胥(ごししょ)の言う事に従ったのか

人が違ったように奮戦し敗れた呉を改革して軍を強くしていきます。

 

夫差は、父の無念を忘れない為に、眠る時は薪の上で眠り体を痛めつけ

また、庭に出た時には、家臣に「父の恨みを忘れたか!」と発言させ、

「忘れるものか!」と返答して復讐の気持ちを新たにしました。

 

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越王 句践、呉を攻めて大敗、捕虜になる

 

 

呉が強くなっていくのを見た句践は危機感を抱き、これを滅ぼそうとします。

しかし、今度は范蠡が「呉には伍子胥がおり夫差もこれを信じています、

今、これを攻めるのは危険です」と反対します。

ところが、かつて呉を破った事で慢心した句践は耳を貸さず呉を攻めて、

記録的な大敗を喫してしまいました。

 

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衝撃!越王句践、助かりたいが為の必死の土下座と命乞い

 

 

句践は、呉軍に捕えられて、夫差の前に引き出されました。

夫差にとっては父の仇です、この場で血祭りに上げて殺そうと考えました。

 

しかし、天下統一の野望を持つ句践は、ここで見苦しい程の命乞いをします。

平身低頭、頭を地面にすりつけ、

「呉王様、どうか殺さないで下さい、お慈悲を」の一点張りです。

 

夫差は、句践程の男なら「殺すなら殺せ」と言うものだと考えていたので

拍子抜けして怒りがしぼんでしまいます。

 

結局、その場で殺すのは止めて、牢獄に放り込んでしまいました。

越に残っていた家臣の文種(ぶんしゅ)は、これをチャンスと見て

句践を救う為に、夫差の重臣で、賄賂に目がない伯嚭(はくひ)に

多額の賄賂を送り句践の助命を頼みこみました。

 

伍子胥は、一日でも早く、句践を殺すように夫差に進言します。

しかし、伯嚭が必死で句践を弁護したので、次第に夫差は句践がどうでもよくなり

自分の馬を管理する仕事につけて召使として使う事にします。

 

句践のゴマすりは続き、ついには夫差のウ○コをなめる!

 

 

 

何とか、助命された句践ですが、何事にも徹底している彼は油断しません。

夫差の召使いとして、毎日、おべんちゃらをいい、自分を卑下し夫差を

どんどん持ち上げる事に努めます。

 

呉王、夫差もヨイショに弱い体質らしく、次第に句践を信頼するようになります。

或る時、夫差は病に伏せた事がありました、ようやく回復してきた頃の事、

句践は、「殿、私には、医術の心得があります、殿のウ○コをお貸し下さい」

 

というなり、オマルから夫差が排便したばかりのウ○コを指に取りなめ、

「うん、この便は苦みが強く体調は回復しております、もうじき良くなりましょう」

と言い放ったのです。

 

夫差は自身の排泄物をなめてまで尽くしてくれる句践を強く信頼するようになり

完全に警戒心を解いてしまい、馬の管理人の仕事を辞めさせ越に帰国する許可を出します。

 

もちろん、宰相の伍子胥は猛反対しますが、范蠡は伯嚭に多額の賄賂を送り

夫差に伍子胥の悪口をどんどん吹き込みます。

父の仇を討って、気が緩んだ夫差は、暗愚な性格が戻り激しく自分を批判する

伍子胥が疎ましくなり、ついに罪を着せて、これを自殺に追い込みました。

 

 

越に戻った句践は、熊の肝をなめて屈辱を晴らす事を誓う

 

 

警戒心を削ぐ為とはいえ、宿敵のウ○コまでなめた句践の恨みは凄まじいものでした。

 

「おのれ、夫差、、この恨み、晴らさでおくべきか・・」

 

句践は、毎日、毎日、夫差の事を思い出しては熊の苦い肝をなめました。

これにより、自分が夫差より受けた屈辱の数々を忘れまいとしたのです。

 

一応、句践を弁護すると排泄物をなめて、健康をチェックするのは、

嘗糞(じょうふん)と呼ばれ唐の時代までの中国や朝鮮にはあった歴とした医学です。

決して、句践のスカ○ロ趣味ではありません。

 

句践、富国強兵に励み、ついに呉を滅ぼす

 

 

伍子胥を失った夫差は、どんどん増長し、覇者気どりで北の晋(しん)と

抗争するなどし次第に国力を疲弊していきます。

その隙を突いた越は、呉に攻め込んで戦端を開き、およそ4年の戦いの後、

呉の首都を陥落させました。

 

夫差は、配下を越軍に遣わせて裸にさせ、憐れさ全開で句践に命乞いをさせます。

 

 

「昔、呉王はあなたの助命を受け入れ、そのお陰であなたは覇者になりました。

あなたも、一回だけ、呉王を助命していただけまいか?」

 

句践は、その言動を哀れに思い、つい夫差を救おうと考えますが、

范蠡は、頑として首を縦に振ろうとはしませんでした。

 

「夫差は、22年前に覇者になる天命を自分でドブに捨てたのです。

あなたは、その夫差の真似をするおつもりか?」

 

句践は、はっとしましたが、流石に夫差を殺す気にはなれず甬東(ようとう)という

辺境に流す事でケジメをつけようとします。

 

流罪の決定を知った、夫差は自害する

 

 

しかし、高齢で流罪の決定を受けた夫差は絶望します。

 

「やはり、22年前のあの時に伍子胥の言う通りに句践を殺すべきであった。

いまさら、あの世で伍子胥にあわす顔がないわ」

 

夫差は、そう言い、着物で自分の顔を覆い自害したようです。

 

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春秋戦国ライター kawausoの独り言

kawauso 三国志

 

いかに相手の警戒心を解くためとはいえ、宿敵のウ○コをなめるとは

そのおべんちゃらの徹底ぶりに背筋が寒くなってしまいます。

これは、特別に夫差でなくても、大抵の人は警戒心を解いてしまうのでは

ないでしょうか?

 

こうまでして、覇者になった句践ですが宿敵が消えた事で慢心し、

呉のように国力を衰退させます。

そして、句践から6代後の孫の時代に強大になっていた楚に攻められ

紀元前306年頃までには滅んだようです。

 

本日も悠久の春秋戦国時代を肴に乾杯!!

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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