西暦263年に蜀漢は魏に降伏をしました。その魏も265年に禅譲によって晋に滅ぼされると、益州は晋によって統治管理されていきます。
蜀漢滅亡から約10年後、王濬という人物が見いだされ、呉を討伐するための大規模水軍の建造が益州で行われました。この作戦は見事に成功し、晋は呉を滅ぼして天下統一を成し遂げています。
王濬の時代から遡ること30余年、かつて蜀漢の大将軍であった蔣琬もまた同じプランで北伐を再開しようとしていました。
しかし、蔣琬の北伐は計画時点で頓挫し、実現には至っていません。そこで今回はこの二人のプランと蔣琬が実行していたらどうなっていたのか、そして蜀漢滅亡前後の益州の事情について考えてみたいと思います。
呉を降伏させた王濬
王濬は名門の家柄であり、高い能力を持っていました。荊州都督だった羊祜は呉を討伐する鍵となるのが水軍であり、大規模な水軍を秘密裏に開発する必要があると考えます。その時に抜擢されたのが、かつて羊祜の下で働き、さらに益州刺史だった経験を持つ王濬。当時、王濬は大司農の役職に就いていましたが、再び益州刺史としてかつての任地へと戻ります。
そこで、詔勅を得た王濬は大規模な船団の建造を開始。その際に人夫が足りないという事態が発生しますが、勝手に休息していた正規兵を工事に動員することで解決しました。そこから1年ほどの歳月をかけて完成させた船団は、全長が120歩あり、2000人以上が乗れる規模だったと言います。
ただ、船団完成後も朝廷内には呉討伐に消極的な人物たちも少なくありませんでした。そこで、船団の建造などを影から支えてきた側近の何攀が洛陽へ赴き、呉へ攻め込む許可を取り付けます。
そして、279年に王濬は長江を下って武昌と西陵を攻略し、翌年には首都である建業に迫り、孫皓を降伏させました。
計画途中で失脚した蔣琬
234年に蜀漢の丞相だった諸葛亮が病没すると、その後継者として指名されたのが蔣琬でした。諸葛亮が亡くなってからの数年間は、国是としてきた北伐が一時的に中止状態に陥ります。
しかし、蔣琬は北伐を諦めていたわけではありません。238年に開府すると姜維を司馬(補佐役)に任命し、240年には隴西方面へ姜維を派遣するなど諸葛亮時代を踏襲した軍事行動を再開。
この姜維の動きは魏に対して、再び同じルートで北伐をするという印象をつけるためのフェイクであり、本命は水軍を使った魏興、上庸方面への進軍でした。ただ、長江を下るルートでの北伐は朝廷内の反対によって中止を余儀なくされます。そして、病に伏した蔣琬は費禕に官職を譲り、実質的に蔣琬の政権は終わりを迎えました。
筆者は北伐反対派の中心にいた費禕が、何らかの方法で蔣琬を失脚させたと考えています。いずれにしても、蔣琬の水軍による軍事行動は実行されないまま頓挫しました。
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【北伐の真実に迫る】
王濬と蔣琬の計画を比較
王濬と蔣琬は生きた時代も大きく離れていますし、蜀漢と晋とで取り巻く環境や制度、二人の立場などあらゆる条件が一致していません。ただ、それを前提とした上で、なぜ王濬は成功し、蔣琬は頓挫したのかを考えていきたいと思います。
まず二人の環境で一致しているのは、朝廷内に反対の声があった点です。それに対し、王濬は部下の何攀が羊祜や張華など発言力の高い人物を引き入れ、許可を取り付けることに成功しています。
蔣琬は軍事、政治のトップでありながらも、諸葛亮ほどの権力がなかったのか内部の反対で、あっさりと北伐を中止させられています。姜維がトップとなった時には、尚書令の陳祗が賛同してくれたので姜維は軍事行動が可能でした。
つまり、蔣琬の失敗は政権内部の人脈構築がうまく言っていなかったためと言えます。仮に尚書府に発言権のある味方がいれば、北伐ができた可能性はあります。
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蔣琬の北伐ルートの成功率は?
蔣琬の北伐が反対されたのは、上流からであれば攻める時は有利であるものの、ひとたび敗走すると川を遡上する関係で、被害が大きくなる可能性が高いためでした。
そのため、奇襲による一撃必殺が求められていましたが、王濬の例を見ると蔣琬の動きは読まれていた可能性があります。王濬は大量の船を造る際に木くずが大量に発生し、長江の色を変えるほどでした。そのため、呉にも水軍による侵攻が露呈してしまい、途中に鎖を設置されるなど対策をされています。蔣琬は同盟相手である呉に対しても上庸方面への侵攻を相談していませんでした。
しかし、司馬懿は241年に発生した芍陂の役において、朱然が囲む樊城へ自ら馳せ参じています。
当時の司馬懿は、曹爽によって名誉職である太傅にされていて、兵権こそ取り上げられていなかったものの、半ば引退同然の状態でした。そんな司馬懿がわざわざ朱然を追い払うためだけに出向いているのは、蔣琬への備えだったのかもしれません。
かつて諸葛亮も第一次北伐の際に上庸の孟達を離反させて、上庸方面と祁山方面の二面から魏へ進軍しようと計画していましたが、これを読んだ司馬懿の迅速な対処によって孟達は討たれています。
こうした経験から、司馬懿独自の嗅覚がそれを察知した可能性はあります。なので、司馬懿あるいは魏に読まれていたのであれば、蔣琬の北伐は失敗に終わった可能性が高いですし、予想された通り甚大な被害を出したはずです。
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益州は人材不足だったのか?
そもそも、諸葛亮が軍事と政治を1人で背負っていたように、蜀漢政権時代の益州は深刻な人材不足でした。蔣琬時代も同様で、北伐を支えられる土壌があれば、反対派の意見もそこまでは通らなかったはずです。
王濬はというとすでに益州が晋の領土になってから10年以上の年月が経過していましたし、度々名前が上がっている何攀が政治面を大きく支えていました。例えば、船を建造する材料が不足した時に、墳墓に植えられていた松や柏といった木を市場で買い取るという方法で、市場を潤わせつつ材料を調達しています。
他にも反対派を抑え込んで司馬炎を説得もしているなどです。ただ、この何攀はもともと蜀漢の官吏であり、晋に仕えてから大成した人物と言えます。他にも費詩の息子である費立も何攀によって晋に仕え、皇帝の側近である散騎常侍にまで出世していますし、文立も司馬炎に才能を買われて散騎常侍になっています。また、王濬の後をついで龍驤将軍となった李毅など蜀漢滅亡後に活躍した人物は少なくありません。
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三国志ライターTKのひとりごと
諸葛亮、蔣琬の時代は本格的に人材不足だった可能性もあります。ただ、黄皓が人事に対しての影響力を持ち始めた後は、少なくとも有能な人物が活躍できない、出世できない土壌ができていたのは確かです。
もしくは、諸葛亮はあまり人を見る目がある方ではない印象を受けるので、有能な人材を見逃していた可能性はあります。そういった違いが蔣琬と王濬の蜀漢と晋の明と暗を分けたのかもしれません。
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