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五虎大将軍はほとんど残念な最期を迎えていたって本当?【三国志の意外な事実】

2022年8月30日


 

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五虎大将軍b 関羽、張飛、馬超、趙雲、黄忠

 

 

五虎将軍とは三国志演義の主人公劉備に従う関羽張飛馬超黄忠、趙雲の5人です。いずれも甲乙(こうおつ)つけがたい実力を持つ五虎将軍ですが、その最後は残念なモノが多いってご存知でしたか?

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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五虎将軍筆頭 関羽

五虎大将軍の関羽

 

五虎将軍の筆頭(ひっとう)は関羽です。関羽は桃園(とうえん)の誓いからの劉備の部下で死ぬときは一緒と誓った義兄弟でもありました。

 

桃園の誓いをする劉備、張飛、関羽

 

関羽は身の丈2mを越える大男で、長さ60㎝にもなる長いあごひげを生やし美髯公(びぜんこう)と呼ばれました。強いばかりでなく義理堅い性格で劉備ばかりではなく、劉備のライバル曹操も一時、関羽を捕らえ多額の贈り物をして部下にしようとした事があります。

 

関羽が大好きすぎる曹操 ver2

 

しかし、桃園の誓いを守る関羽は、赤兎馬を除く全ての贈物に封をして曹操に返して堂々と劉備の下に去っていきました。その潔さに曹操は感動し、関羽を追いかけて捕まえましょうという部下に対し「もういい、いかせてやれ」とさっぱりと送り出しています。

 

関羽は一日に千里を走る赤兎馬に乗り、青龍偃月刀(せいりゅうえんげつとう)という刃に龍の姿が刻まれた矛を得物とし、三国志演義では多くの一騎打ちを経験。

青龍偃月刀を持つ関羽

 

虎牢関を守る華雄を瞬殺し、官渡の戦いでは袁紹軍の二大猛将、顔良(がんりょう)文醜(ぶんしゅう)を斬殺。何度か引き分けはあるものの対戦した相手をほとんど瞬殺する強さでした。そんな関羽ですが困った性格上の欠点がありました。

関羽にネチネチ怒られる糜芳(麋芳)

 

自他ともに厳しい性格で目下(めした)には優しいのですが、自分と対等か目上(めうえ)の人物に厳しく当たる癖があったのです。関羽は婚姻関係を求めてきた呉の孫権を罵倒して追い返してしまい、怒った孫権は極秘に曹操と同盟を締結。関羽が魏の樊城を攻めている途中に上下から挟み撃ちにしました。

 

関羽、司馬懿、蒋済

 

本拠地を奪われた関羽の下からは兵士がどんどん逃げていき、関羽自身も捕らえられて斬首される残念な最期を迎えます。

 

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関羽

 

 

万人敵と呼ばれた五虎将軍 張飛

五虎大将軍の張飛

 

張飛は(あざな)益徳(えきとく)と言い、五虎将軍のナンバー2です。関羽と同じく劉備の義兄弟で死ぬときは一緒にと誓い、劉備と苦楽を共にしました。張飛は、武勇において義兄関羽を上回るとも言われていて、曹操軍の参謀、程昱(ていいく)からは1人で1万人の軍勢に匹敵する「万人敵(まんにんてき)」として恐れられていました。

 

張飛の男気人生

 

身長は185㎝ほどで関羽より小柄ですが、はちきれんばかりの筋肉をしていて、虎のような瞳に顔中を覆うトラひげがトレードマーク。丈八蛇矛(じょうはちじゃぼう)という蛇のようにうねる刃をつけた矛が得物(えもの)で三度の飯より酒と戦いが好きという好漢です。

 

殿を務める張飛

 

一番の見せ場は長坂橋(ちょうはんきょう)で曹操軍の精鋭虎豹騎(こひょうき)を足止めにした時で、僅かな手勢で橋を通せんぼした張飛の気迫に、さしもの百戦錬磨(ひゃくせんれんま))の虎豹騎も先に進めず、劉備一行は無事に落ち延びる事に成功しました。

 

酒癖の悪い張飛(桃園三兄弟)

 

そんな張飛には大酒のみの欠点がありますが、それを上回る欠点が部下に対して愛情がない事です。関羽とは反対に張飛は目上の人には従順ですが、部下に対して厳しく、ちょっとした事で鞭で打ったり処刑したりし、劉備がどんなに注意しても改めませんでした。

 

張飛のパワハラに怯える張達と范彊

 

その後、義兄の関羽が呉の孫権に討たれると張飛は怒り狂い、よくイジメていた部下2名、范彊(はんきょう)張達(ちょうたつ)に3日の間に喪服(もふく)(白服)を数万着集めろと無茶を言い出し、出来ないなら殺すと脅しました。

 

亡くなる張飛将軍

 

呆れると同時に怒った二人は泥酔して寝ている張飛を襲い、首を斬って呉に逃げてしまったのです。張飛は五虎将軍の中で一番残念な最期を迎えました。因果応報(いんがおうほう)と言うか自業自得(じごうじとく)というか、あまり同情できないですね。

 

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燃え尽きた五虎将軍 馬超

五虎大将軍の馬超

 

馬超は字を孟起(もうき)と言います。涼州の軍閥だった馬騰(ばとう)の息子で羌族(きょうぞく)漢族(かんぞく)の混血であると考えられています。

 

馬超の兜にフォーカス

 

馬超の別名は錦馬超(きんばちょう)で輝く鎧を身につけた堂々たる人物で、父の馬騰が曹操暗殺計画に連座した為に、一族二百名もろとも処刑されると一族の仇を討つとして、同じく涼州の軍閥、韓遂(かんすい)を味方につけて曹操に叛きました。

 

蜀馬に乗って戦場を駆け抜ける馬超

 

馬超の軍勢は騎馬軍団で、その機動力を生かして曹操を追い詰めますが曹操の軍師、賈詡(かく)の偽手紙によって韓遂と仲違いしてしまい、その隙を曹操に突かれて敗北します。

 

馬超と韓遂

 

涼州に逃げた馬超は漢中の張魯に従い魏の領地に攻撃を仕掛けたり、劉璋(りゅうしょう)の依頼で漢中に攻めてきた劉備軍の張飛と一騎打ちで互角の勝負をするなど強さは健在でした。劉備の軍師である諸葛亮(しょかつりょう)は、馬超を張魯から引き離すために計略を使い漢中にいられなくなった馬超は劉備に降伏して五虎将軍の1人となります。

 

劉備軍に降伏する馬超

 

益州の劉璋は、劉備と仲違いして成都に籠城していましたが、馬超が劉備に降ったと聞くと恐れを抱き、籠城を止めて劉備に降伏しています。こんなに強い馬超ですから、さぞかし劉備軍で活躍すると思ってしまいますが、実際には曹操が漢中に攻めてきた時に少し登場するだけで、ほぼ出番はありません。

 

ボロボロになった馬超

 

馬超は曹操に大敗してから苦労が続き心身共に燃え尽きてしまい、西暦222年何と劉備よりも早く病気で死んでしまうのです。これは寿命なので仕方ないですが、錦馬超と呼ばれた猛将にしては寂しい最後でした。

 

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三国志最強ジジイ 五虎将軍黄忠

五虎大将軍の黄忠

 

黄忠は(あざな)漢升(かんしょう)と言い、元々は荊州長沙太守韓玄(けいしゅう・ちょうさたいしゅ・かんげん)の部下でした。劉備が赤壁の戦いで曹操に勝利し荊州に攻め込むと黄忠が迎撃(げいげき)にでます。

 

劉備は関羽を迎撃に向かわせますが、老人の黄忠は関羽と互角以上の戦いを展開、劉備軍を驚かせました。ところが、黄忠の馬が運悪く戦場でつまづき黄忠は地面に投げ出されます。

 

北方謙三 ハードボイルドな関羽

 

潔く観念する黄忠ですが関羽はトドメをささず、「勝負は時の運、馬を替えてまた戦おう」と戦場を去りました。韓玄は黄忠を叱り、次は得意の弓を使って関羽を殺せと命じます。しかし、関羽に借りがある黄忠は、最初は関羽の(かぶと)の飾りを矢で射て、自分の弓の腕を教えて戦い、また引き分けてしまいます。

 

弓の名人・黄忠

 

韓玄は黄忠が関羽と内通していると疑い、もう1人の部下である魏延(ぎえん)に処刑を命じますが、人望がない韓玄を魏延は毛嫌いし、反乱を起こして韓玄を殺害。長沙は劉備軍の手に落ち、黄忠は魏延と共に劉備軍に入ります。

 

謀反を起こす魏延

 

こうしてみると関羽とは仲が良さそうな黄忠ですが、これも演義の脚色であり、正史では、関羽が黄忠と同レベルの地位になる事を嫌がり「老いぼれと一緒にするな」と発言した事があります。

 

黄忠はその後も劉備の配下として戦い続け、後年の夷陵の戦いでも、関羽の息子、関興や張飛の息子、張苞と共に戦場に出ています。

 

頑固ジジイで戦場に出たい黄忠

 

そんな黄忠ですが負けず嫌いな性格が玉にキズで、劉備に「年寄は無理をしないでくれ」と言われてカッとし、単騎で呉軍に突撃して矢を受け関興(かんこう)張苞(ちょうほう)に救助されたものの、矢傷が元で戦死しました。

 

黄忠の様子を見に行く趙雲

 

三国志最強ジジイとも言うべき黄忠は、年を重ねても元気な高齢者の代名詞となり、中国では老いて増々盛んな老人を「老黄忠」と言うそうです。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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