え?まるでバカ殿?三国志時代の愛されメイクを紹介。どんな風にお化粧してたの?

2015年10月17日


 

許褚 三国正史 食べる

 

大昔は、食糧事情が悪くて、太っている人がモテたんだよと聞く事がありますが、それは、4千年の歴史を持つ中国では、必ずしも当てはまりません。

 

楊貴妃

 

例えば唐の時代の代表的美女である楊貴妃(ようきひ)は体重100キロはあると言われた大柄でふくよかな女性で、彼女がタライで湯あみをするとタライの湯が無くなるとも言われる程でした。ところが、三国志の時代には、逆に細いスレンダーな女性が持て囃されたりしています。当時の女性の美の基準や、化粧方法について紹介しましょう。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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太っている為にからかわれた曹真の逸話

後ろ向きになって弓矢を放ち虎を倒す曹真 虎豹騎

 

 

曹操(そうそう)の甥にあたり、大将軍まで昇った曹真(そうしん)はパルティアンショットと呼ばれる騎馬民族の射撃法を体得できる程の運動能力がありましたが、そんな敏捷性があるようには思えない程に肥満していました。イメージとしては、燃えよ、デブゴンのサモハン・キン・ポーかも知れません。

 

呉質

 

ある宴席で、曹丕(そうひ)のお気に入りの武将の呉質(ごしつ)は、そんな肥満した曹真を「デブ、デブ、少しは痩せろ」とからかいました。曹真は肥満している事を気にしていたので、これに激怒したと言われます。※魏志曹洪伝が引く「魏略」

 

ここで分かるように三国時代には、太っている事は決してプラスではなく、からかいの標的であった事が分かります。また、曹真は立派な人徳者だったのに、容姿でからかわれて怒るという事は当時は太っている事にはマイナスイメージしか無かったのではないでしょうか?

 

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三国時代の美人の基準とは?

後宮 美女 階級

 

三国志の時代の始まりに当たる、後漢の末期の時代の女性の美の基準は、細いウエスト、青白い肌、大きな目、そして小さな足だったようです。小さな足は、兎も角、それ以外は現在の美の基準とそんなに変わらないイメージですね。

 

当時の代表的な美女は、前漢の成帝の妃になった趙飛(ちょうひえん)で、彼女は非常に腰が細く、顔が青白く病弱な感じで、風が吹いてもよろめくような華奢な女性だったようです。

 

当時の女性は、趙飛燕に近づこうと断食をして、細いウエストを得ようと頑張り体調を崩す人が続出したと言いますから、美へのこだわりは恐ろしいです。この趙飛燕は、唐代のグラマー美女、楊貴妃と対極的に扱われ、環肥燕痩(かんぴ・えんそう)という言葉の語源になっています。環肥とは、楊貴妃の名前の玉環の「環」で、燕痩とは、趙飛燕の「燕」の意味です。楊貴妃は肥り、趙飛燕は痩せていたけど、双方が美女だったという事です。

 

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三国志の時代の女性の化粧とは?

 

 

中国の歴史上、最初の化粧に関する記述は、紀元前6世紀の詩経(しきょう)に見えます。そこには、蛾眉(がび)という言葉があり、眉毛は昆虫の触角のように細く長くするのが美しいという記述があるのです。

 

そこで、当時の貴婦人達は、木炭や炭を使って眉毛を細く書く事に執心しました。もちろん、元々眉が太い女性はそれを抜いたか剃り落したのでしょう。この蛾眉の人気は衰えず2000年以上も継続しました。

 

また、紀元前4世紀には、現在もある口紅や白粉(おしろい)が登場します。赤い口紅には有害な水銀の一形態である丹砂(たんしゃ)が使用され白粉にはこれまた毒の鉛が使われ長期間使うと肌がシミだらけになりボロボロになる恐れがありましたが、それより美への執着が勝りました。

 

 

三国時代に大流行、志村○んのバカ殿様メイク

 

漢の時代は、前後で400年という空前の平和が産まれました。それにより、化粧の技術も著しい進歩を遂げ、白粉に油を混ぜて伸ばすという方法が開発されたのです。

 

これにより白粉は扱いやすくなり、漢の時代の女性は、顔ばかりではなく、首や肩まで、白粉で白く塗りたくったと言われます。これも色白という美女の基準があったからですが、そんな顔から肩まで白いのでは、舞妓さんか、志村○んのバカ殿様メイクです。明るい日中はいいでしょうが、夜道でそんな人にあったら相当怖いでしょう。それに、鉛と松ヤニを混ぜたポマードも登場し、当時の女性は難しい奇抜な髪形を結っては、それを松ヤニポマードで固定しました。

 

顔につけるワンポイント、花鈿 (かでん)靨鈿 (ようでん)

 

また、三国時代の呉では、額や口元に花鈿 や靨鈿という赤いワンポイントを入れていたようです。これは唐の時代に隆盛を迎えますが、当初は、顔の腫れ物を治療していた女性が医療ミスで顔に赤い点が残った所、それが何ともいえず色っぽいとして周囲の女性が真似しだしたのが起源とされています。確かに、赤ではないですが、女性の口元に小さな黒子があるだけでも、男性はドキッとしたりしますからね。

 

女性ばかりではない、三国志の武将も化粧をしていた!

何晏

 

このような化粧は女性ばかりではなく、何晏(かあん)のような魏政権の重鎮も若い頃はナルシストで顔から肩まで白粉で塗り固めていたようです。また、近年発見された曹操の墓からも、何晏と同じ白粉が出てきたという事で曹操も、若い頃か或いは年を取ってからも顔から肩まで白く塗っていた可能性が出てきました。

 

曹操 バカ殿

 

曹操も若い頃は不良だったようですが、もしかしてビジュアル系の不良で顔も肩も真っ白でブイブイ言わしていたかも知れませんね。

 

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三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

古今を問わず、長い太平の時代が続くと男性は女性化してしまうという事があります。化粧や、装飾にこだわるというのも、その表れかも知れません。三国時代も人は見た目が9割で、何よりも容姿が重視されたという話もありますから、見た目が良くない武将や知将は仕官するのも大変だったでしょうね。

 

しかし、楊貴妃から、趙飛燕まで、美女の基準というのは幾らでも変わるのですね。今日も、三国志の話題をご馳走様でした。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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