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歴史は繰り返す、三国時代について
日本人は三国志が大好きです、そこまで詳しい人でなくても劉備(りゅうび)や孫権(そんけん)、曹操(そうそう)という名前を聴いた事はあるでしょう。
「三国志のウンチクなら何百でもある、是非話しをさせてくれ!!」
そういう会社社長は多いですし、私のような中国歴史マニアもそうです。三国志について語れ!と言われたら一日あっても足りないでしょう。
しかし、中国史は一日にして成らずで、中国の歴史もいきなり三国志から、始まったわけでもありません。
スターウォーズだって、ルーク・スカイウォーカーの前にアナキン、すなわちダースベイダ―の物語が語られ完結しましたよね?
ですから、中国史もさらっとおさらいでもいいので、その最初から紐解いていった方が三国志もより面白さを増すのです(多分)
中国3000年の歴史はここからはじまる!
中国において、歴史上最初の王朝が出来たのは紀元前16世紀です。
今からざっと3000年前で中国三千年の歴史はここから来ています。
殷は、対外的な名称で、殷人は自分達を商人と言いました。殷は神権政治で、動物の骨を焼いて政治の吉凶を占っていました。
しかし、建国から500年も経過すると暴君の紂(ちゅう)王が登場征服した小国から得た妲妃という女に夢中になり政治を忘れます。
紂王は酒池肉林の快楽に耽り重税を取り立てて民を苦しめたので、国中で恨みが募り、西峡(せいき)の武王という人物が兵を上げます。紂王の政治に呆れていた諸侯(実力者)も武王に賛成して軍に加わったので、武王の軍は大軍になっていきました。
紂王は部下にさえ見限られていたので戦争に敗れ自殺しました。こうして、中国の天下は、西峡の武王の手に入ります。商の人々は土地を失い、流浪しながら品物を売り歩いて生計を立てます。この事から商人(ビジネスマン)という言葉が生まれました。
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過激な革命思想が根付くようになったきっかけ
この時より、中国では「民の信望を失った王は、別の有徳者に権力を奪われるのが天の摂理である」という過激な革命思想が根付くようになります。これを「易姓革命」といい、以後の中国は、この理屈で何度も武力革命が繰り返されるようになります。
幽王というアホな王の誕生
さて、武王が起こした周王朝も、建国から250年程すると、幽王というアホな王が出てきて、国が異民族に征服されてしまいます。幸いな事に周は別の王を立てて、存続できますが、それを見た諸侯達は、周王朝を馬鹿にして命令に背くようになり天下は、弱肉強食の戦国時代に突入するのです。
いよいよ春秋戦国時代の幕開け
それを春秋戦国時代といい、春秋が300年、戦国が200年、合計で500年も国が乱れるという空前の乱世がやってきます。
春秋戦国時代の初期、700はあったと言われる国は、併合と淘汰を繰り返して、たった7つに集約されていきます。それが、秦、斉、趙、魏、韓、燕、楚の7国で戦国七雄と呼ばれます。
その中で、最強の国になったのが秦でした、その秦の王である政(せい)は、自ら始皇帝と名乗り紀元前221年についに中国を統一。細々と生きていた周王朝を滅ぼして、500年の戦乱を終わらせます。
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—熱き『キングダム』の原点がココに—
秦の天下は僅か15年で終わる
しかし、秦帝国は、苛酷な刑罰と重税、万里の長城の建設のような空前の大土木工事を人民に強制しました。
やっと戦乱が終わり楽な暮らしが出来ると思っていた人民は、やがて、始皇帝を激しく恨むようになります。始皇帝が死去すると、それまで抑えられていた人民の不満が爆発します。秦の天下はたったの15年で幕を閉じてしまうのです。
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歴史でも有名な楚漢の戦いが始まる
ここから中国は、項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)という二人の英雄を軸に、范増、韓信、張良、
䔥何、黥布、彭越というような英雄、知将、豪傑が入り乱れる乱世になります。
これを楚漢の戦いといいますが、最期には、農民出身の劉邦が、紀元前202年に、無敵の将軍であった項羽を滅ぼして戦乱を終わらせます。
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劉邦は漢という新しい国を建国し、秦のような急激な改革を避けて人民を休養させる事50年に及んだので国力は増強して、人々は、安心して暮らせるようになり国は富み栄えていきました。前漢は200年程継続しますが、空前の平和の中で、皇帝の妃の一族が政治を私物化するという現象が起きるようになります。
これを外戚と言いますが、その中の王莽(おうもう)という男が出て漢の皇帝を廃止して、新という王朝を建国しました。
ところが王莽は時代錯誤な人物で、古代の王朝を理想化して、経済を停滞させるような政策を打ち出したので人民の暮らしは苦しくなります。
やがて、赤眉の乱という農民反乱が起きると、あっと言う間に中国全土に波及して乱世になり王莽は殺害されました。
そのような反乱軍の中から、皇帝の血縁者である劉秀が頭角を現し、洛陽に都を置いて、漢を再興させます。
これを後漢王朝と言います、劉秀は即位して光武帝と称しました。後漢王朝も最初は良かったのですが、時代が進むにつれて、皇帝の妃の一族である外戚と、皇帝の使用人である去勢された男性宦官(かんがん)が対立と抗争を激化させていきます。
それぞれが自分に味方する人間を重臣として宮廷に送り込むので、無能でも世渡りが上手い人間が政治を行うようになります。こうして、賄賂が横行して人民に重税を課すような酷い政治が常態化していくのです。
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振興宗教を興した張角、太平道の誕生
政治が腐敗すると、これを正そうとする熱血漢な人が出てきます。太平道という振興宗教を興した張角も元はそんな人物の一人でした。
元々は官吏になりたかった張角ですが、採用試験に落ちてしまいます。そして、汚職役人の腐敗した政治を見て怒りを覚え、世の中を抜本的に変える為に腐った漢王朝を打倒しようと考えます。
皆さま、お気づきでしょうが、これこそ、易姓革命の思想なのです。力と人望があれば、誰でも権力者を打倒して皇帝になれる。このルールに則り、張角は黄巾党を組織して叛乱を起こすのです。
張角の黄巾党は、瞬く間に勢力を広げ、最盛期には、100万名の大軍を擁する一大勢力になります。
黄巾党の存在
黄巾党の勢力を恐れた漢王朝の害毒である外戚と宦官は一時停戦、帝国の正規軍だけでは不足だと考えて在野の兵力を活用しようと画策します。そして皇帝を動かし「漢王朝を黄巾賊の勢力から守れ」と天下に号令を出すのです。こうして、在野にあった名も無い英雄・豪傑や、田舎でくすぶっていた権力者が歴史の表舞台に登場する準備が整います。
皇帝の号令に対し、劉備や、孫堅、菫卓、丁原、呂布、公孫攅のような在野や、地方の有力者、そして、袁紹や袁術、そして曹操のような、中央にいても出世が阻まれているエリート達が呼応しました。
外戚と宦官は、こうして黄巾賊を恐れるあまりに、漢王朝の脅威になるもう一つのパンドラの箱を開けてしまいます。
「黄巾賊を倒す事で、漢王朝で出世の道が開けるかも知れない、、」
天下の英雄達は、野心の炎を燃やして、自ら戦場に身を投じていきます。こうして、三国志の幕が開き無数のドラマが展開されるのです。
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