三国志史上、蜀の丞相、軍師として有名な
諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)ですが、
実は、劉備(りゅうび)が生まれて初めて、軍師としたのは、
孔明ではなく徐庶(じょしょ)でした。
前回記事:58話:水鏡先生曰く、劉備に足りない人物って誰の事?
この記事の目次
単福(たんぷく)と出逢うが、単福(たんぷく)って誰?
水鏡先生こと、司馬徽(しば・き)の元から帰った劉備は、新野城の郊外で、
単福(たんぷく)と名乗る人物に会います。
この劉備が出会った単福こそが徐庶でした。
軍師というと、色白の優男で白羽扇より重いものは持てないというイメージ
ですが、徐庶は、このイメージには収まりません。
軍師でありながら武にも長けている徐庶(じょしょ)
徐庶は字を元直(げんちょく)といい若い頃は、血の気が多く、
武芸で身を立てようと考えている撃剣(げきけん)の名手でした。
撃剣とは、護身術の一種で身を守る為に飛刀や短剣を使う技術です。
また、義侠心に厚い徐庶は、友達に仇討ちを頼まれて加勢し、
その為に逮捕されて牢屋に入った事もあります。
しかし、その友達の手により牢屋から救いだされて、
考える事があったのか、それからは武芸を捨てて、学問の道に
入っていきます。
徐庶(じょしょ)学問の道に進む
徐庶は、戦乱を逃れて入った荊州で司馬徽(しばき)に出会い、
彼に師事しながら、孔明とも知遇を得て、共に学問に勤しむようになります。
司馬徽の下には、孔明以外にも、孟建(もうたつ)、石鞱(せきとう)、
という同窓生がいました。
孔明と徐庶は同じ同窓生だった
徐庶と彼等3名は、学問を精密に研究しましたが、孔明は逆で、
学問を高い地点から見て大まかに要点を掴んで覚えるというタイプだったようです。
どちらかと言うと孔明が天才肌で、徐庶は秀才タイプと言えるかも知れません。
孔明は孟建と徐庶の才能を評価したが・・・・
孔明は、よく、孟建と徐庶の才能を評して、
「君達は、まあまあ器用で、何事も卒なくこなすので、
州刺史、郡太守程度には出世するだろうと思うね、、」と言っていたようです。
州刺史、郡太守とは、今で言えば、県知事や市長クラスですが、
なんだか、リアル過ぎて、夢がない感じがする人物評です。
そこで、ある程度の意趣返しで徐庶と孟建が
「では、お主はどれ位に出世するのだ?」と聞くと
孔明は、笑って、はぐらかすだけで答えなかったそうです。
劉備は、徐庶を引見して、色々と質問してみますと、若いのに
深く洞察力に富んだ意見の持ち主である事に驚きます。
そこで、劉備は、、
「もしや、あなたが、水鏡先生が噂していた臥龍(ふくりゅう)、
鳳雛(ほうすう)でしょうか?」
と質問してみました。
すると、徐庶は、声を上げて笑い、
「私のような非才は、臥龍、鳳雛に比較すれば月とスッポンです」
と返答して否定しました。
劉備は徐庶を軍師に迎える
ともあれ、劉備は、徐庶を気に入り、軍師として劉備軍に加える事に
なっていくのです。
魏に降る事を余儀なくされますが、
彼の最終官歴は、右中郎将で、これは州刺史、郡太守に匹敵する地位
だったのだそうです。
孔明の人物評は、図らずも的中したと言えるのではないでしょうか?
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耳で聞いて覚える三国志
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歴史ライターとして、仕事をし紙の本を出して大当たりし印税で食べるのが夢です。
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