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「斉」ってどんな国?キングダム戦国七雄を徹底紹介

2015年8月17日


 

太公望 釣り

 

斉は70歳を過ぎてから頭角を現した遅咲キング太公望(たいこうぼう)こと、

姜子牙(きょう・しが)が封じられた土地で海に面していて人間の生活に欠かせない

鉄と塩を生産したので富み栄え、管仲(かんちゅう)、孟嘗君(もうしょうくん)、

晏嬰(あんえい)、司馬穰苴(しばじょうしょ)というような

無数の英雄を輩出しました。

 

一方で、貴族が君主の権力を上回り、途中で一度滅んで別の人物によって、

再び、斉として建て直された国でもあります。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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太公望、武王に領地を与えられたけど、そこには先住民がいた、どうする?

 

太公望呂尚(りょしょう)は、最初は文、後には武王の軍師として、

(いん)の紂(ちゅう)王に不満を持つ諸候をまとめて殷を滅ぼした建国の功臣でした。

 

その手柄から、周の武王は太公望に斉の土地を与えます。

ところが周の勢力は斉まで及んでおらず、

そこには先住民の菜(らい)と呼ばれる人々が暮らしていました。

 

太公望は、軍勢を率いて、菜を倒してここに斉を立てますが、

法律を土地に合わせて分かりやすく作り変えるなど、周のやり方を

押しつけなかったので大きな混乱は起こりませんでした。

 

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周王、三監の乱討伐に手柄を立てた斉に中華の警察官を命じる

 

武王が早死にして、幼い成王(せいおう)が立つと、

これでは政治が不安定化するとして、

武王の弟の周公旦(しゅうこう・たん)が王の仕事を代行します。

 

ところが、これを周公旦の政権強奪と疑った武王の兄弟達は

本来は監視していた筈の殷の紂王の息子の武庚(ぶこう)と手を組み、

周公旦に反乱を起しました、これを三監(さんかん)の乱といいます。

 

この時に斉は、周公旦の側について、反乱鎮圧に大きな手柄を立てます。

その為に周の成王から大きく信頼されて、

「東は海に至り、西は河水に至り、南は穆稜(ぼくりょう)に至り、

北は無様(むよう)に至る間の五侯九伯(ごこうきゅうはく)が

罪を犯した場合、これを討伐して良い」と命じます。

斉はいわば、中華世界の警察官のような役割を与えられました。

 

 

 

斉強大化し、桓公が最初の覇者になる

 

斉は塩の生産と、鉄を産するという土地柄から農業と商業の発展が急速に進み

自前で貨幣も発行し、他の国に比較してもとびきりに豊かな国になります。

その中で、王位についた16代の君主、桓公は元々敵であった

管仲(かんちゅう)を許し、これを宰相にして自身は無心で耳を傾けます。

 

桓公自体は凡庸な人でしたが、人のアドバイスに素直に耳を傾けるという

生来の性質が吉と出て、管仲の補佐もあり周囲の国をまとめていき、

紀元前667年、周王から覇者として認められました。

 

はじめての孫子の兵法

 

斉、繁栄も束の間、没落期に入る

 

しかし、宰相だった管仲が死ぬと、よくも悪しくも他人に染まる

桓公は佞臣を近づけて腐敗政治を招いてしまい後継者争いが起きます。

その最中で桓公は死にますが、まだ後継者が決まらないので葬儀も

出せず、遺体は60日間も放置されて、腐臭を放ち寝室からは

蛆が外に大量に這い出たと言われています。

 

こうして、覇者の地位は20年の放浪の後に故国に戻り覇者になった

晋の文公に取って変わられ、斉は低迷期に入ります。

 

諸葛亮も尊敬した、宰相、晏嬰登場 斉は持ち直すが・・・

諸葛孔明019

 

時代は春秋の中期に入り、中華は南の楚と、北の晋(しん)による二強と

そこに入り込まんとする、秦と斉という時代になります。

斉は相変わらず大国ではありましたが、君主が凡庸な人が続き、

国(こく)氏、高(こう)氏、鮑(ほう)氏、崔(さい)氏、慶(けい)氏

陳(ちん)氏の六大貴族が、政治に影響力を奮うという

貴族政治に移行しつつありました。

 

特に、24代君主の荘公光の宰相、崔予(さいよ)は、

「荘公光が自分の妻と不倫している」

として激怒してこれを殺してしまいます。

 

そして新しい君主を立てますが、これも別の貴族に殺されるなど、

斉では君主の力が非常に弱くなってしまうのです。

 

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斉の弱体化を見て、晋と燕が斉の領土を奪う

曹操 弱点 蟻

 

そのようなゴタゴタを見て、晋と燕は軍を派遣して斉の領地を奪います。

しかし、斉の26代君主の景(けい)公は有能な人物で、

宰相として晏嬰を起用します。

 

晏嬰は、130センチに満たないという曹操以下(失礼)の小男ですが、

だれも恐れる事なく諫言して、堂々としており、しかも全てが天下の為を

考えたものであった事、そして高い身分でも質素な生活をしていたので、

斉の国民からも絶大な信頼を得ていました。

 

諸葛亮孔明も、荊州で浪人暮らしをしている頃に、

晏嬰を尊敬していて、梁父吟(りょうほぎん)という

晏嬰を称える不気味な、素朴な詩をくちずさんでいました。

 

晏嬰は、晋と燕の侵略に対して名将、司馬穰苴(しば・じょうしょ)を派遣します。

司馬穰苴は、軍律を重んじて公平であり兵士の立場に立って行動したので

弱兵で知られた斉の兵士は生まれ変わり傷病兵でさえ戦を志願しました。

 

それを知った晋と燕は震えあがり、軍を引き上げたので、

斉は奪われた領地をなんなく回復できたと言います。

 

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太公望の興した斉は滅亡し、田氏の斉が興る

太公望の興した斉は滅亡し、田氏の斉が興る

 

しかし、晏嬰の死後は、再び、六大貴族の中で勢力争いが起きて、

次第に、弱い貴族が淘汰されていき、最後には陳氏の田和が登場して

32代の君主の康公(こうこう)に譲位を迫って太公望の興した斉を滅亡させます。

ここに田氏の斉が興り、これを田斉と呼び、以前の姜斉と区別します。

 

斉の威王(いおう)の時代に斉は覇者になる

 

紀元前386年に姜斉を滅ぼした、田和(でんわ)は

周の安王(あんおう)によって諸候に建てられて、ここに田斉が成立します。

田氏は、元々は陳という小国から紀元前672年に政治亡命した

公子完(こうし・かん)が祖先ですが、紀元前500年頃になると、

貴族として勢いを得て、宰相の晏嬰も、

「田氏は民心を得ておる、斉はやがて田氏に乗っ取られるだろう」

と予言していました。

 

斉の3代目の君主の桓公が死去して、息子の威王が即位すると、

大国晋から、分裂したばかりの、韓、趙は、その隙を突いて大挙して

斉に侵攻しました。

 

しかし、威王は政治を部下に放り出し、自分は後宮に入り浸り、

酒食に明け暮れて、お気に入りと馬鹿話ばかりをしています。

 

さらに、威王は「俺に諫言する者は殺す」とお触れを出したので、

皆、恐れて諫言する人は無くなり、佞臣や悪臣は贈り物をして、

威王の歓心を買い、出世したので斉は没落するばかりでした。

 

賢者、淳于髠(じゅんうこん)威王の思惑を見抜く

 

そんな威王の無気力な政治が9年続いた頃、威王のお気に入りに

淳于髠というものが現れて、王に謎かけしました。

 

「ある所にとても立派な鳥がいますが、3年もの間、鳴く事も

飛ぶ事もしません、これはどのような鳥ですか?」

 

それを聴いた威王は、ニヤリと笑います。

「それは俺の事だ、3年鳴かずとも一度鳴けば天下を驚かし

一度、羽ばたけば天までも羽ばたこう、その時は来た!」

 

その日より、威王は後宮を出て自ら政治を執るようになります。

そして、威王が怠けているのをいいことに好き勝手していた

家臣は全て厳罰に処して殺し、逆に真面目に仕事をしていた家臣を

誉め称えその地位をどんどん引き上げました。

 

9年間の無為の日々は忠臣と悪臣を見分ける為の威王の

手の込んだ芝居だったのです。

こうして、斉からは腐敗は一層されてしまいました。

さらに威王は、孫武(そんぶ)に並ぶとされる天才兵法家の孫臏(そんびん)を

将軍に任命して当時の覇者であった魏の龐涓(ほうけん)将軍を馬陵の戦いで破ります。

 

そして逆に、これまで斉を侵略した国に攻め込んだので、各国は、

威王を恐れて、自分から奪った領土を返還して威王に挨拶に来るようになります。

 

諸子百家を盛んにした威王

 

また、威王は淳于髠の意見を入れて、斉の稷(しょく)門という所に学者村を造ります。

そこには、各国の高名な学者が集められ、豊富な資金と食糧と住居が与えられ

ヒマに飽かせて、毎日のように学術の議論が戦わされました。

稷門からは鄒衍(すうえん)、淳于髠、田駢(でんぺい)、接与(せつよ)、

慎到(しんとう)、環淵(かんえん)などの高名な学者が出て、

彼等は稷門先生と呼ばれて、後世の中国の思想史に絶大な影響を与えていくのです。

 

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奢り高ぶりが仇に、没落する斉

 

威王が造り上げた斉は、息子の宣(せん)王、そして孫の湣(びん)王という

70年余り大いに栄え、その力は西の秦に匹敵する程になりました。

 

しかし、湣王の時代になると奢りが出て、周辺国を見下して、

人心を失うようになります。

折しも、太子の時代に国土を斉に蹂躙された燕の昭(しょう)王は、

恨みを胸に国力を増強して、名将を雇い入れます。

その中の楽毅(がくき)は、斉の人気の無さに浸けこんで

五カ国連合軍を結成、50万の大軍の総大将になり、

斉軍20万を撃破して、その国土を奪い斉を滅亡寸前にまで追いやります。

 

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斉、田単の活躍で復活するも秦の王賁将軍の前に滅亡

 

楽毅の進撃で滅亡寸前に追い詰められた斉ですが田単(でんたん)という男が

楽毅と新しく燕王になった恵(けい)王の仲の悪さを利用して仲違いさせ、

燕軍を破って、斉の領土を回復させます。

 

が、時すでに遅く、斉の勢いは地に落ちて、無傷の秦だけが、

強大化して残されました。

斉は、情けない事に、秦に対しては事なかれ主義で臨んで、

他の五カ国とは連合しなかったので、束の間の間は平和を得ますが、

五カ国が滅ぼされると最後の1国となり、紀元前221年、秦王政が

派遣した将軍、王賁(おうほん)により最後の斉王建(けん)は捕えられ

斉は滅亡します。

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

斉の桓公、斉の威王と二人の覇者を出し、常に中華の覇権争いに

顔を出した斉は、経済力と国力で唯一、秦に単独で対抗できた国でした。

しかし70年に亘る強国時代に奢りが産まれ、また肝心な時に

湣王という暴君が出てしまい中華統一のチャンスを逃したと言えるでしょう。

 

湣王がもう少し謙虚で強大化する秦にSTOPをかける六カ国の盟主に

なっていたら、或いは歴史の流れは違ったかも知れません。

 

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