波乱に満ちた劉備(りゅうび)の生涯において最大の転機となった出来事と言えるのは、
諸葛孔明(しょかつこうめい)と出会い、彼を軍師にしたことでしょう。
劉備は孔明を得るこどで「天下三分の計」という戦略を同時に得て、その戦略に基いて行動するようになったのです。
周りの状況にただ流されていた前半生とは大きな違いです。
劉備と孔明の出会いの影には、一人の立役者が存在しました。
その人物の名は徐庶(じょしょ)。
劉備の運命を変えるきっかけを作った、この徐庶とはどんな人物だったのでしょうか?
この記事の目次
剣を捨てて学問の道に入った徐庶
徐庶は元の名を徐福(じょふく)と言いました。
奇しくも、不老不死の薬を求めて日本にやってきたという伝説で知られる、あの徐福と同じ名前です。
三国時代の徐福は晩年に改名して徐庶と名乗るようになったのですが、ちょっとややこしくなるので、ここでは徐庶で通します。
若いころの徐庶は義侠心あふれる剣の使い手でした。
友人の敵討ちを買って出た徐庶でしたが、役人に捕らわれてしまい、他の友人に救出されます。
この出来事がきっかけで、徐庶は剣を捨てて学問の道に入りました。
やがて、徐庶の故郷にも戦乱が及ぶと、
徐庶は友人だった石韜(せきとう)と共に戦火を逃れるために故郷を離れ、荊州に移住しました。
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荊州で徐庶を待っていた出会い
徐庶は荊州で水鏡先生として知られる学者、司馬徽の門下生となります。
そこではひとつの出会いが彼を待っていました。
徐庶や友人の石韜ら、司馬徽の門下生たちは皆、書物のすみずみまで細かいところを理解しようと躍起になって学問しましたが、
ひとりだけ、様子の違う者がいました。彼は必死に書物にかじりつく徐庶らを尻目に、
だいたいのことが理解できると次々に新しい書物に手を出していきました。
この、当時としては風変わりな学習法を実践していた人物。
彼こそが、諸葛孔明でした。
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劉備に孔明を紹介する徐庶
徐庶が孔明と共に司馬徽の下で学んでいた頃、荊州には曹操に追われ落ち延びてきた劉備がいました。
劉備のことを知った徐庶は劉備と面会します。
その席上、徐庶は自分の友人である孔明のことを劉備に教えました。
徐庶の話を聞いて、是非、孔明を自分の軍師として迎えたいと思った劉備。
徐庶に「その友人を連れてきてはくれぬか?」と頼みます。
しかし、徐庶は孔明がプライドの高い男だと知っていました。
無理に彼を劉備のところに連れてこようとしても、断られるだけでしょう。
徐庶は劉備に「孔明は呼んでも来るような男ではありませんが、殿が自らお出向きになれば、会うことがかなうでしょう」と説明。
こうして劉備は三度にわたって孔明の庵を訪れ、有名な「三顧の礼」の故事が誕生したのでした。
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母親が曹操の捕虜に!! 慌てた徐庶は……
そうこうしている内に、烏桓族の討伐を終えて北方の平定を完了した曹操が、今度は軍を南に返し、荊州へと侵攻してきました。
劉備は曹操軍を迎え撃ちますが敗北してしまいます。
戦火の混乱の中で、徐庶にとって一大事が生じました。
なんと、彼の母親が曹操軍に捕らわれてしまったのです!!
その事実を知った徐庶は狼狽しまくりパニックに陥ってしまいます。
『大変だ!! ママが曹操に捕まった!! 助けにいかなきゃ!!』
……と、徐庶が言ったかどうかは分かりませんが、
ともかく彼は劉備に別れの挨拶をすますと、母親を捉えた曹操の元へ赴いたのです。
その後、徐庶は彼の才能を認めた曹操に仕えることになり、
劉備のもとに戻ることはありませんでした。
当時と現代の親子感の違い
なんだ、母親のせいで徐庶は劉備を裏切ったのか。
とんだマザコンじゃないか!!
……とまあ、現代的な感覚からすればそう思えなくもありませんが、これは当時としては無理もないことでした。
三国時代の中国では、諸子百家のひとつである儒家の思想に基づく価値観が支配的で、
その思想は自分の親や目上のものを敬う「孝」という考え方を基本としていました。
中国の歴代では、『外戚(がいせき)』と呼ばれる皇妃の親類たちの専横で度々政治が荒れ、叛乱が起こることが繰り返されました。
これは「孝」の教えの悪影響であったとされています。
そんな時代に、学問を志した徐庶が儒家の影響を受けないわけがありません。
劉備を見捨てた徐庶の行動は、極めて当たり前だったのです。
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ちなみに三国志演義ではどうなっているのか?
ここで紹介した徐庶の逸話は正史の記録を元にしています。
『三国志演義』では、徐庶は孔明に先駆けて劉備軍の軍師となり、
攻めてきた曹仁率いる軍に圧勝する戦果を上げています。
曹操は配下の程昱(ていいく)の策を用い、徐庶の母親の筆跡に似せた手紙を彼に送り、おびき出して捉えてしまいます。
この時、徐庶は自分の代わりになる人物として孔明を紹介したとされています。
曹操に降った徐庶はそこで偽手紙の計略を知ります。
「わが息子ながらなんと情けない!!」
まんまと計略にはまってしまった息子を見た徐庶の母親は嘆き悲しみ、ついには自殺してしまいます。
自分の過ちを思い知った徐庶は曹操のためには働かないと誓いを建てたのでした。
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徐庶が劉備のもとを去らなければ……
もし、徐庶が劉備のもとを去らなければ、歴史の流れは大きく変わっていた可能性も考えられます。
益州を手に入れた劉備は荊州を関羽に預けますが、徐庶がいれば、彼自身か、あるいは孔明が関羽と共に荊州に駐屯したかもしれません。
もしそうなっていれば、後に荊州が陥落することもなかったかもしれません。
歴史のめぐり合わせって、不思議ですね。
では、次回も是非、お付き合いください。
—あなたの知的好奇心を刺激する諸子百家—
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この記事を書いた人:石川克世
自己紹介:
小太郎さん(スキッパーキ オス 2歳)の下僕。
主食はスコッチウイスキーとコーヒーとセブンイレブンの野菜スティック。
朝風呂が生きがいの小原庄助的ダメ人間。ヲヤジ。