三国志の呂布(りょふ)と並び称される武将としてキングダムの時代の英傑の項羽(こうう)が挙げられます。
しかしそれでも武勇においては項羽は呂布より上と断言していいでしょう。何故なら、何度か敗れている呂布に対して項羽は最後の最期で劉邦(りゅうほう)に敗れるまで全くの無敗だったからです。23歳で挙兵して、30歳で死ぬまでの8年間に70戦以上を戦い、勝率9割9分、最強の天才武将の生涯を前後篇で追います。
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絢爛たる獅子の血筋、伝説の名将、楚の項燕大将軍の孫
項羽は、本名を項籍(こうせき)といい羽は字(あざな)です。紀元前232年に楚の将である項嬰(こうえい)の子として誕生しました。項家は楚において代々将軍を輩出した名門で項羽はエリートです。
特に項羽の祖父である項燕(こうえん)大将軍は、秦の李信(りしん)、蒙恬(もうてん)の率いる遠征軍20万を完膚無き程に叩き潰し逆に秦に攻め入った程の名将です。ですが、項燕は、秦最強の名将である王翦(おうせん)の持久戦に敗れて戦死し、故郷の楚も秦軍の蹂躙にあって滅亡します。
時に紀元前223年の事で、項羽は9歳の少年でした。この時に項羽の父も母も戦乱の中で亡くなり項羽は叔父の項梁(こうりょう)に連れられて楚を脱出します。以来、項羽の宿願は秦帝国を足下に踏み潰し楚の恨みを雪ぐ事になります。
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少年時代の項羽は、何をやっても中途半端だった
項梁は、楚の名門の御曹司である項羽を一角の人物に育てようと、出来る限りの学問と武芸を習わせようとします。しかし、項羽は学問も武芸も或る程度になると放り出してしまいます。その事を項梁が叱りつけると、項羽は悪びれずにいいました。
項羽「叔父上、文字などは、自分の名前が書ければ充分でしょう?
剣術だって一人を相手に出来る腕があれば充分、そんなものより私は一人で万人を相手に出来る兵法を学びたいと思います」
項梁は成程と思い兵法を教えますが項羽はこれも一通り内容が分かると放り出して学ばなくなりました。
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項梁と項羽、会稽(かいけい)の長官を斬り兵を挙げる
項羽は、成長すると身の丈九尺(207センチ)という大男に成長し、怪力無双、勇気も並はずれていて、すでに本拠地にしていた呉中の若者のリーダー格の青年に育っていました。紀元前210年、項羽が22歳の時、絶大な権力を奮い、人民を虐げた秦の始皇帝が没します。
それと当時に、それまで抑え込まれていた民衆の不満が爆発、翌年には、陳勝(ちんしょう)と呉広(ごこう)という百姓二名がやけくそで人夫を率いて暴動を起しそれが中国全土に広がり秦打倒の叛乱の火の手があがります。この陳勝、呉広の乱は、あっという間に100万人が参加する大反乱になり、中国全土で、秦の任命した長官や県令、秦の兵士が殺されました。
県令や長官の方でも、援軍を要請しても秦から援軍も来る様子もないので保身の為に自ら反乱に参加した方がいいと考える人間が出始めます。項羽や項梁が拠点にしていた会稽郡の長官、殷通(いんつう)もそんな人物でした。ですが、秦の長官として威張りくさっていた殷通には人望がなく、彼の号令では、子供でさえ動きはしませんでした。
そこで、殷通は、会稽郡、呉中の顔役として人望を集めていた項梁に目をつけてこれを密かに呼び寄せて、自ら反乱を起して秦に背くので将軍になって欲しいと依頼をしています。
ここで項梁は、自分には将軍は務まりませんが、甥の項羽なら剛の者なので、務まりましょう、しかし、項羽はプライドが高いので長官自ら、これを呼び寄せて命令をして下さいと言います。殷通は、すぐに項羽を呼び寄せるように言うと、項羽は帯剣したまま、役所に上がり込み、そのまま殷通を真っ二つに斬り捨てます。
項羽「聞けい!貴様達、殷通は我が身可愛いさに反乱軍にこの会稽を売ろうとしおった!よって、その腐った首を項羽が斬った何か文句があるかぁっ!」
項羽が怒鳴りつけると、役所を守っていた兵士は武器を投げ捨てて、項梁と項羽に従う事を約束しました。
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